15
このころの僕の1日だ。朝起きる。顔を洗って、弁当を受け取って学校に行く。このころ僕の家の経済はさらに悪化していたのは明らかだった。うちの親は、食糧難の時代に育ったせいか、ご飯信仰がとても強い。食事の時は、おかずがどんなに少なくてもいいがご飯は必ず十二分になければならないらしい。だから、米を余計めに炊く。当然、たいていの場合、余る。ご飯は上の方が水気を失ってカラカラになる。これまでは、母はそういうご飯は冷凍保存しておいて、お粥とか雑炊を作るときに使い回していたけど、そういうバリバリご飯を、このころは平気で弁当に入れるようになっていた。
誰とも親しい会話を交わすこともなく、僕は午前中の授業を終える。炊きたてホカホカご飯のなれの果てである弁当を美味しくいただいたあと、午後の授業を終える。帰ったら、母が冷蔵庫の中に入れている安い食材で自分と両親合わせて3人分の食事を作る。
休日なんかになると、親がいるから、雑用を命じられる。たとえばトイレ掃除とかだ。僕は凶悪犯罪者だから、トイレ掃除をしなければいけないらしい。僕は凶悪犯罪者だということを、僕は折に触れ母から刷り込まれることになった。たとえばこんな感じだ。
「ホショウってどんな字だったかな?」
そう僕がたずねたとする。
「どういうときに使うホショウ?」
「損害をホショウするって時のホショウ」
「補うに、にんべんに一等賞の賞って書く字やん」
「ああ、これで補償か、おぎなう、つぐなうね」
「そう、お前は、償うために便所掃除が仕事なんだぞ!」
母は、こういうときに相手に対して自分の優位を誇示するのが大好きだ。こういうときの母は、普段滅多に見せない嬉しそうな顔をする。そして、相手が言い返せないのを見て楽しむのが、たぶん母の人生最大の楽しみだ。
「誓約書にそんなことを書いた覚えがないけど」
そう言い返してみたこともある。だけどその瞬間もう母は鬼の形相に変わっていた。
「親のために役に立とうっていう殊勝さもないのかあんたには!?」
いつ喉笛を食いちぎられても不思議ではなさそうだったので、僕はそれ以上言うのをやめた。とにかく、苦労してカネを稼いで塾に通わせていた自分たちは絶対正義で、それを勝手に投げ出した僕は何がどうあろうと絶対悪で、僕には親が言うことをやる義務が何があろうと存在するのだ。たとえそれが「ウンコ食え」であっても。
独房だ。独房も独房、戦前の、犯罪者には人権なんてなかった時代の懲罰房の中に囚われた、看守のおもちゃになるためだけに存在する懲役囚。それがこのときの僕だった。
親がいない時間帯に、こっそりと僕はティムのCDをプレーヤーにかけた。動いているティムを見たことはあのテレビの音楽番組以外はまだこのころなかったけれど、ティムは僕の目の前でありありと、美しい衣装を着て、端正な顔で、野太い声で、一般人には届かない境地にいる自分のことを歌って踊っていた。ひとことで言えば、このころの僕の崇拝対象だった。親が帰ってきたら、僕のティム教活動は終わりだ。親ふたりに給仕係として仕え、その後は机に向かうことを厳命される。そして風呂に入って僕の1日が終わる。翌日また「ご飯の残骸」をもって家を出る。延々この繰り返しだ。
なんでネリーは、どこかへ行ってしまったのかな。ネリー自身は多分僕を喜ばせたいという気持ちしかなかったと思う。だけど、結果的には僕を凶悪犯罪者に仕立て上げてしまったことになるから、自分はいない方が僕にとっていいと思ったんだろうか。あるいは、正面切って親と喧嘩する覚悟なく、コソコソと逃げ回るためにネリーを連れ回して、それがバレてもあくまで自分の意見を通す勇気もなく、すごすごと懲罰房に入った僕に愛想を尽かしたんだろうか。いずれにせよ、あんまりいい気分ではなかった。
夏が終わり、秋になる。僕らの受験日は近づいてくる。このころ中学では模擬テストが盛んに行われて、そのたびに偏差値という数値が出てその数値と照らし合わせてこの高校は厳しいとかいろんな話をされたし、面接事前練習も3年生の全生徒を対象に行われた。
この地に来てから、2回目の年末年始がやって来た。さすがに年末年始だけは、わずかにリラックスをすることが僕にも許された。去年と同じ家族バラバラの年末年始ではあったけど。
また、僕は明け方と言った方がいいような時間に庭に出てみた。1年前と同じように、冬の空気は澄み切っていて、星がキラキラと瞬いていた。だけど、去年はいたネリーが、今年はもういない。どこにいるのかもわからない。
今年は、きらめく星に向かって手を伸ばしてみる気にはなれなかった。届かないのは明らかだったし、すぐ近くまで連れて行ってくれたネリーも今年はもう、いない。僕は空が飛べないし、飛べたとしてもネリーのいない空はつまらないだろう。
結局、ネリーってどういう存在だったんだろう?もしかして、僕の願望が作り出したただの幻だったんじゃないか?僕がネリーと遊んでいると思ってた時間は、他人から見れば僕が気絶しているだけで、僕は夢を見ていたんじゃないか?
3学期が始まり、受験があった。この高校を受験するのは同じ中学からは僕以外にいなかった。だけど例の塾の塾長がお気に入りの学校だったから、知った顔は何人かいて試験の間の休憩時間には大声でしゃべっていて、僕が来ているのを見て指さして笑っていた。
合格発表日。僕はシルバークラスに合格した。掲示板前では既に先輩による部活動の勧誘が始まってて、僕がシルバークラスだとわかるといろんな部から勧誘が来た。実は、剣道部の勧誘には乗ってみようかなと心が揺らいだ。結局、入らなかったけどね。
中学校の卒業式。楽しい思い出はなかったが、お決まりのイベントがあって、卒業式は終わった。僕は、教わっていた全ての先生にありがとうを言いに行った。別にそんなことしたくないが、母が兄弟姉妹同士で子供自慢をし合う際に、私はうまく躾けているでしょ、と言うために、僕はそういうことをしなければいけなかったのだ。詳しくは覚えてないが、これは覚えている。例の音楽の先生には「元気で」と言って、握手を求められたので素直に応じておいた。
野川、黒崎、その他数名の不良連中は案の定固まってしゃべり合ってると言うより叫び合っており、僕はそいつらに「嗤われ納め」をした。卒業式か。僕にとっては刑務所を出るような記念日だったけどね。なんで僕が「お世話になりました」と言ったら「こんな所に、もう来るんじゃないぞ」と返ってこなかったのか、不思議だ。
出所式から帰ってきて、制服を脱いで楽な服装に着替えてから、僕は深い深い溜息をひとつついた。記念日だそうだけど、今日を境に何か変わるのかな。
ほんのわずかの間だけ、あの会社の「西日本営業所」だった部屋は、うちの家の中で一番広くて、窓からの景色がきれいだ。一番遠くまで景色を見渡せて、夕日も見える。だから僕は、いつだったかネリーを座らせた事務椅子に腰をかけて、沈む夕日を見ながら、これからの日々を考えた。少しでも、いままでよりマシな日々になるといいけどな。そんなことを考えて、座ったままキャスターを転がして椅子をいまは不要になった事務机の前に戻した。
(何かが、いつもと違う)
僕はなんとなくそんな気がした。あの機械部品メーカーの商品パンフレットは、父のトラウマになってるだろうから父は触れようともしなかったし変わっているはずがない。僕が前にいた中学の技術家庭科の実習として作って、僕に一言も断りなく父が勝手に改造してデスクラックに仕立てた書架には、相変わらずなにも収められていない。いったい何なんだろう、この違和感。
僕は結論に至った。父は肩凝り性なので、マッサージに使うためにゴルフボールを机に置いていた。だが、父は肩が3つあるような体型ではない。にもかかわらず、ゴルフボールは3つある。
僕はゴルフボールをよく見ようと手を伸ばした。そのとき、ゴルフボールの1個が動き出した。まるでかくれんぼのなんたるかをまだよくわかっていない小さい子が毛布をかぶって丸まっているような姿勢から、クルクルッと起き出して人間の形になったそれは、僕に向かって「久しぶり」とでも言いたげに片手を上げた。
「お前、ネリーか?」
それは、よく見た仕草でコクコクと頷いた。
「そうか、お前、帰ってきてくれたのか!」
僕は嬉しくなって、いつかみたいに手にとって頬ずりをした。
「本体は、どこかに隠してあるのか?」
今度はネリーは首を横に振った。
「育ち直し?」
頷いた。僕はなんでも良かった。ネリーとの日々がまた始まるんだ。なんだか、急に高校生活が楽しそうなものに思えてきた。
春の、寒くもなく暑くもない、とても季候のいい日のことだった。
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