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 今回の受験には、僕は新幹線で乗り込んだ。試験会場まで電車1本で行ける街に、奮発していいビジネスホテルを取り、フカフカのベッドで移動の疲れを癒やす予定だった。だけどいろんな思いが頭を巡ってあまり眠れなかった。試験を受けて帰路についた。僕は3回目の「補欠合格から落ち」という結果しか出せなかった。
 その結果が出た日から、ネリーの姿が見当たらなくなった。落胆しきっていたのと、1回はいなくなって戻ってきているからそんなに心配ではなかったこと、そのふたつがあったから、僕は「えらいこっちゃ」とは思わなかった。
 ……あの国際関係学部に戻る?それはあり得ない。しばらく考え、大卒資格さえあればいいことに思い至り、僕は通信制大学を選んだ。「最初から結論を決めての議論」という行為をとんでもなく馬鹿馬鹿しいことだと思っていた僕は、ちゃんと考えられる自分になりたいと思い、哲学を学ぶことにした。その中でも、日本思想を。
 警備員のバイトで貯めたお金で、僕は昔住んでいたあのあたりとも近い大学の通信教育部に入学し、最低ランクのアパートを借り、引っ越しの手続きを取った。いよいよ明日は引っ越しという日、両親が仕出し屋から折り詰めを取り「壮行会」が開かれた。
「今回の件は、お前のわがままだと思う。だけど、決めたのなら、俺は応援する」
 父はそう言った。それなら、僕が楽しく過ごしていた中学をやめさせてあんな不良の巣窟に放り込んだのはわがままじゃないのか?
 気になったのはネリーのことだ。いなくなってから、戻っていない。このままじゃお別れになる。夜、なんだかいろいろ感情が入り乱れてしまって、少し泣いた。
 ウトウトし始めたタイミングだったと思う。僕は弱い光の気配を感じて目を覚ました。気がついたら、僕の部屋には無数の、例の羽虫が舞っていた。その羽虫たちが、僕を導いているみたいな動きをしていたので、真夜中に僕は起き出して、羽虫たちの導くままネリーの森の奥深くに入っていった。そこにあったのは、木の根元に横たわっている、ネリーを思いっきり太らせたような形の白い物体。羽虫たちと同じ色に光っていた。
 突然、そこに亀裂が入った。亀裂は徐々に広がっていった。羽虫たちが、ダンスを使ったメッセージで僕に「そこをめくってみろ」と伝えているように思えた。僕はその裂け目に手を伸ばしてみた。ずいぶん子供のころに持っていた、蚕の繭を使って作った起き上がり小法師に、触った感じは似ていた。思い切ってベリベリとめくると、中から身長1メートル足らずの、光る少女が現れた。全裸だ。そして背中には繊細なレースのように網目状に半透明で、そして光っている虫羽根がついていた。……これはネリーだ。
「そうか……女王様、だったんだね」
 見慣れた動作で2回頷いた。きれいだ。とんでもなくきれいだ。僕がいつかは会いに行きたいと思っている人形のような少女たちのように見えるし、早川さんに似てる気もする。僕の中に堆積していた、ネリーに対する無数の疑問。それが溶けていくように感じた。
 ネリーは腕と羽根を振り、周囲の羽虫たちに命令した。羽虫たちが僕の周りに球を作ると、その羽虫たちの上昇に合わせて僕は空を舞った。いつ以来だろう。空中散歩なんて。
 周囲が光のスクリーンだからだろうか、空から見る地上にはあまり光が見えない……僕はそう思った。だが、違う。今見えているのは、この地域のすごく昔なんだ。ネリーと、僕を包む光の球体は、羽虫たちによって作られる光の細い糸によってつながれていて、大きな輪を描きながら何度も何度も旋回した。
 ほとんど真っ暗闇だった地上の景色に、少しづつ光が浸食していく。僕はいま、この街の歴史を見ているんだな。光はますます広がり、そして暗闇は追いやられた。どのくらいの時間が経った、何回目の旋回だったかはもうわからない。今の景色までたどり着いたら旋回をやめ、空の中で光の球に包まれた僕とネリーは向かい合った。
 ネリーの口が、動いた。
(し・あ・わ・せ・に)
 口の動きがそうだったことを僕が理解したときには、ネリーは再び羽虫たちに命令を出し飛び去る体勢に入っていた。
 球体を形作っている羽虫たちが、僕をゆっくりと地面に下ろした。そしてネリーの後ろについていく。暗闇の中に大きな光が大きな羽根を羽ばたかせて飛び去っていき、そこから尾を引くように光の糸が僕の方に向かっている。だけど、その糸も僕に近い方からだんだん消えていく。
(新しい森に行くんだな)
 僕はそう確信した。もう、2度と会うことはないであろうことも。あまりにも美しいその景色は、成人式なんかよりはるかに鮮やかに、残酷に僕の10代の終わりを告げていた。
 楽しかったはずの10代を奪われた代わりに与えられていたものが僕の元を去った。朝が来て、僕は旅立ちの列車に乗った。親元を離れ、僕が主人公の僕の人生が始まった。
 年度が替われば、重機が運び込まれてあの木々はなぎ倒されるはずだ。仮に僕が戻ってきても、同じ景色を見ることはもうない。
 それでも、僕はきっと生きていける。夜空を見上げてあの奇跡のように美しい光景をそこに思い描くことができるならば。この、ネリーのいない空の下で、地に足をつけて。