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 ナイトメアズ・イン・ワックスのことだ。来日公演記念特別リミックスアルバムを発売した後、サンズ/アディソン/ウィーヴァーの下を離れて、ティムとその恋人であるトム名義でプロデュースしたアルバムを1枚、さらにそのリミックスを1枚発売した後は伝わってくる情報が少なくなっていた。後になってわかったことだが、本国でのレコード会社との契約が切れ、日本での版権を持っていた会社との直接の契約で1枚だけアルバムを発売した。だからこれは日本国内でしか発売されてなくて、もちろん僕は買ったけど、その後はどこのレコード会社との契約もなくなってしまったらしい。
 このころのティムの凄まじい波瀾万丈が、なぜこのころ伝わってこなかったかと言うとまずそういう形でナイトメアズ・イン・ワックスが大々的な活動をできなくなっていたことがひとつ。それと無関係ではないと思うんだが、ボーカルであるティムと、その恋人でありドラムスであるトム、このふたりと他のメンバーとの間にバンド活動に対する温度差が出てしまい、実質的解散状態にあったということもあるだろう。
 本人たち以外の要因としては、日本国内での爆発的好景気に若干違和感を覚える人たちが出始めた。そうなると一番最初に下火になるのが贅沢産業というもので、熱狂的なディスコブームがちょっと後退し始めた。だからディスコブームそのものと言って良かったナイトメアズ・イン・ワックスが日本での人気を失い始めていた。
 ある意味それ以上に大きかったのが、僕にとって他のミュージシャンが熱くなり始めていたということ。明喬師匠の著作に出会って日本文化の面白さを知り、僕の中で「日本文化を現代の文明の中にどう位置づけるか」というのがいわば最大の問題になっていた。
 僕が高校を過ごしたその間ずっとと言ってもいいんじゃないかと思うが、輸入レコード店でもらってくるフリーペーパーに掲載されているアメリカの売上トップ100に名前を連ねている日本人がいた。彼のそのアルバムにはボーカルは入っていなくて、シンセサイザーによるインストゥルメンタルだ。そのテーマは「古事記」だった。アメリカではヒット作ほど長い間売れ続ける傾向はあるのだが、それにしてもこのロングヒットは驚異的だった。僕はこの日本人シンセサイザー奏者の音楽から入って、日本の風景を描いたような、だいたいの場合ボーカルを伴わない音楽に夢中になっていた。
 外国の音楽では、ルーマニア生まれでドイツで活動している人が率いているプロジェクトの音楽にまず魅せられた。テレビで放送されたデビュー曲のPVに「これは何?ソロ歌手なの?バンドなの?」と思いながらもその不思議な世界観に引き込まれた。後になってわかったことだがこれはプロジェクトで、率いている人は変わらないが世界各地の民族音楽を取り入れるためもあり実際のボーカリストやその他の奏者は頻繁に入れ替えていた。このプロジェクトに触発されたのかも知れないが、さらに民族音楽性を強く打ち出したユニットも後続するように何組かデビューしてヒットを飛ばした。思えば、世界中でダンスミュージックが売れた後にこういう音楽が流行ることは何か象徴的だ。これらの音楽はまとめて「ヒーリング」とジャンル名がついた。
 僕は日本の文化がいままで途切れることなく伝わっていることに対して、先祖への感謝と誇らしさを感じるようになっていた。別に音楽に限ったことではない。お土産屋さんの3階で行われている落語会には、まれに講談がかかることもあった。大々的に空襲を受けたこともあってほとんど途絶えかけていた大衆芸能を、明喬師匠の世代の人たちがジャンルを超えて協力して発掘し命脈をつないだ時期があり、そのおかげでそれらの大衆芸能は現在それぞれに息を吹き返してファンをつかんでいる。
 明喬師匠の本拠地と違い、すぐ隣なのに僕の家がある街や学校のある街はあまり空襲を受けなかった。だからかも知れないが大衆と言えるような芸能でないものも、その気になって探せばイベントがかなりたくさんあって、僕は狂言というものがテレビで流れているコントなんかよりはるかに笑えるものだということを知った。
 日本の文化にもっともっと詳しくなりたい。と同時に、僕は他国の伝統文化にも敬意と関心を持ち始めていた。お互いに文化を持ち寄ってもっと素晴らしいものができたらどんなにいいだろう。国際関係学部には、政治、経済、文化の3コースがあったが、選ぶなら文化コースだな、僕はそう思いながら大学入学の日を待っていた。
 入るまでの経緯はどうあれ、入ったんなら思いっきり楽しみ、そして学ばなくちゃ、僕はそう思っていた。
 そう、入るまでは。