33
僕にしては珍しく日曜の朝早くに目を覚ました。別に低血圧であるわけではないけど寝起きはかなり悪い。悪いどころか、特にしなきゃいけないことがなければだいたい2度寝して昼過ぎ起きるのが僕の日曜日だ。何の偶然か、早く目が覚めたのはまた翌日の月曜日が祝日で連休という日曜日でもあった。
「ネリー、おはよう」
クローゼットを開けて、僕は天井に向かって声をかけた。天板のわずかな隙間から、いつものようにネリーは現れてくれた。挨拶代わりに、片手を挙げた。
「起こしちゃったか?」
ネリーは首を横に振った。そう言えば眠っているところというのも一度も見てない。そもそも、眠るのだろうか?だけど、僕はこのころネリーに関する様々な疑問を追求するのはやめにすることにしていた。来るべき時が来たら全部わかるだろうし、下手に探ってネリーが嫌がることになったら困るなという気分も正直あった。
「珍しく早起きしちゃったよ。どうしよう?家にはいたくないね」
ネリーは床に降りた。飛んでる方が疲れるとかそういうことはネリーにはあるのだろうか。それにしても、また少し大きくなったような気がするな。
「そうだ、森探検に行こうか。今日はあっちの、剣道サボってたころに行ってた集落の方にどんどん行ってみよう。で、明日は逆の、一緒にグミ食べた森をずっと奥に。どう?」
ネリーは嬉しそうにバンザイをしながら何度も飛び跳ねた。空を飛ぼうと思えば飛べるネリーにとってジャンプとはどういう行為なんだろう?疑問はいくらでも湧いてくる。だけど僕はそのたびに、好奇心を無意識の奥底に押し込んだ。
何はともあれ、僕はネリーをバッグに入れて「ちょっと出かけてくる」とだけ言って外に出た。もし仮に、どこに行くのかとか訊かれても答える気はなかった。友達の家に遊びに行くのだとでも思っているのだろう。この近所に友達と言える存在がないことを、いまだに知らないし知ろうという気もないのだろう。
自転車にしようかとも思ったが、歩いて行くことにした。急坂があったら歩くより大変なことになるし、歩きの方が色々と小回りも効く気がした。何より、一目散に行くよりも歩いた方がいろんな景色が見えて楽しいだろう。
少し遠回りだけど剣道のとき時間を潰した中州の公園に渡り、そこから向こう岸にかかっている橋を通って2段階で川を渡ることにした。これなら、両方歩行者専用だから車に気兼ねせずにすむ。
川を渡って、川沿いをしばらく川上に向かって歩いたら、道は川から離れて森の中へ入っていく。駅と、その前を通るメインストリートからそう離れてはいないのに、この辺りは本当に静かだ。崩落してくる瞬間に居合わせたら確実に死ねる岩がせり出した崖がこの世とあの世を隔てる門のようだ。くぐって過ぎると、そこはもう昔話の世界。田んぼが広がり、鳥よけの役目は期待できなさそうな案山子が「の」の字の目でアサッテの方向を見ている。匂いにでも勘づいたのだろうか、ネリーの動きがせわしなくなった。周りを見回しても人っ子ひとりいないし、僕はバッグからネリーを出した。
ネリーは久しぶりの空気を楽しむように、いつも僕の前で見せるよりはるかに高く飛んでいって上空を何回も旋回した。僕を空中散歩に連れて行ってくれていたころほどではないけどね。それにしても、ずいぶん楽しそうだ。犬を飼っていて、邪魔なものがない広いところでリードから離してやったら、多分こんな風に嬉しそうに駆け回って、飼い主はこんな気分になるんだろう。
「気分はいいか?ネリー」
僕は上空のネリーに向かって大きな声で訊いてみた。誰にもその声を聞かれそうにはなかったし、こんなのどかすぎる場所ではトンビか何かを飼っている酔狂な人と思われて終わるだろう、多分。ネリーは旋回を続けながら、僕の方を向いて両腕両脚をバタバタと振って見せた。嬉しい気分の表現だろうけど、進行方向を向いてなきゃ飛べないというわけではないんだな。
あの川と水源は同じなんであろう用水路が至る所にあった。だから街中の側溝なんかとは比べものにならないくらい水はきれいだ。一応慣れない場所を普段あまりない長距離歩くことを覚悟していたから、今日はスニーカーを履いてきた。時々休憩で、靴も靴下も脱いで用水路の縁に座り、足を水の中に浸けてみた。なんとも気持ちがいい。僕が足をバシャバシャと動かすとネリーは「あ、ズルい、僕もやる!」とでも言わんばかりに降りてきて用水路の水の中ではしゃぎ回った。なんか本当に、行動が犬っぽいな。
そんな感じで気ままにふらふら歩くこと数時間。なんか本当に人里離れてきた。家はまばらになるし道は細くなる。一応、出かけるにあたり地図を軽く見るぐらいのことはしていた。方面的には、こっちへ行くと隣の町へ出てしまうという道は避けた。「市」じゃない本当の「町」で、鉄道が通っていなくて路線バスも数が限られているという、隠遁生活を送るには良さそうなところだ。そっちに行ったら本当に遭難してしまいそうだったので、夜はやっぱり布団で寝たい僕はやめておいた。
「と、いうわけでこっちへ行くよ、ネリー」
行く方面を決めた。バスがずーっと走っていって車庫に入るところがあるが、道はそこからもなお続いている。広い道とはとても言えないが、僕が公立に入っていたとしたら行くことになっていた高校へはそっち方面にずっと走って行く。そのままその道をまっすぐ行ってしまうと北隣の県庁所在地に出てしまうのだが、それをどっかで折れてその高校に行くらしいバスが、朝だけ僕の家のすぐ前にあるバス停からも出ていた。公共交通機関はそれだけだから、たまに見ることがあったらいつも超満員だ。だからもし行くことになったら僕は自転車通学を選んでいただろうな。
見当としては、僕たちが取る道はある程度の距離を保ちながらそのバス通りと並行に行くはずなんだが、なんだか行けば行くほど登り坂がきつくなってきて周りは木ばっかりになってきて、もしかして遭難コースを選んでしまったかと不安になった。道はますます狭くなってきて、自動車が両方からやってきたらわずかに広くなったところでドライバー同士がアイコンタクトで息を合わせて行き違いをする必要がある上級者向けコースという雰囲気が漂い始めた。ようやく登り坂が終わったところはトンネルになっていた。山に穴を空けてコンクリートで固めただけのトンネルで、中には明かりらしきものはない。しかも幅は狭いと来ているから、これは万が一ここで自動車を運転していて対向車とぶつかってしまったら、相当のベテランドライバー同士でない限り難しい事態になりそうだ。
そのトンネルを抜けたら、少し道が下りはじめた。登り坂よりはるかに緩いその勾配をようやく脚の力を抜いて歩いたら、目の前の景色も少し開けだした。そして突然、大きな建物が目に飛び込んできた。その建物のちょうど裏手に僕らは出たことになるらしい。
「なんだぁ……?この建物……」
なかなか大きくて、しかも見る限り新しそうだ。道はその建物の表側に回り込む道しかなかったので、来た道を延々戻るのが嫌ならそっちに行くしかない。
「マジかよ……」
僕はそうつぶやかざるを得なかった。これは、その公立高校だ。比較的新設の部類には入ると聞いていたが、まさかこんな山奥にあるとは。来た道を戻る以外はバスがその高校にアプローチする道路を行くしかなかったから否応なく僕らはそこを歩き始めた。さすがに、道路沿いはある程度整備されてはいる。だが、そのアプローチ道路は大した急傾斜ではないものの延々下り坂として続いていた。僕は一瞬忘れていたが、このままネリーを外に出しておくのはまずい。高校生たちは、ネリーをトンビと間違えてくれるほど田舎の風景に慣れてはいないだろう。グラウンドにいても不思議はない。
「ネリー、見られたらまずいから、ここに入って」
そう言うとネリーはおとなしくバッグに収まった。もし犬だったら、しっぽは下に巻いていたに違いない。
結局、高校行きのバスがたどる道を逆にたどって、歩いていて楽しいとは言えない道をテクテク歩いて、バスの車庫前乗り場からバスに乗って家に帰ることになってしまった。
その日の夜、僕はネリーと語り合っていた。
「今日は前半は面白かったけど、後半はちょっと尻すぼみだったね」
ネリーもなんだか、疲れているような、がっかりしているような、そんな風に見えた。
「しかし、僕が考慮に入れていた公立があんなところにあるとはね。良かったよ、選ばなくて。自転車通学だったらあの長い登り坂を毎日上らなきゃいけないところだったんだ。朝からそれはキツすぎるよね。しかも雨でも降ったら否応なくあのバスだ。遠いけどほとんどが列車移動だから、今の高校の方が通学はずっとマシだな」
実際、朝の混雑時に2両編成のディーゼルカーを使うというダイヤはJRの人も反省したらしく、2ヶ月ほどで長い編成になった。
「じゃあ明日は、あっちの森に分け入ってみよう。道なき道になるけど、方角さえ間違えなければ私鉄の沿線の方には出るはずだ」
そう言うと、ネリーがやっぱりちょっとだけ元気を取り戻したように見えた。本当に森が好きなんだな。
翌日も、僕にしては早い時間に起きて、行き先を告げずに家を出た。道が途切れ、それをいいことに不法投棄天国になっている20メートルほどを過ぎると、そこはもう完全に獣道。分け入っても分け入ってもどこまで続くか見当もつかない。
こうなってくるともう頼りは森のエキスパートであるネリーだけだ。ネリーはスイスイと木の間を飛び回っているようにちょっと見ると見えるが、その実ちゃんと僕が歩くにも楽なコースを選んでくれていた。ちょっと一息入れたくなったタイミングで少し開けた場所に導いてくれたし、食べられる実があったら教えてくれた。
「いやぁ、昨日の登り坂もしんどかったけど、森の中はまたちょっと別のしんどさがあるもんだね」
実際、道さえあればワンツー・ワンツーのリズムで歩いて行けるが、森の中を歩くには地面の凹凸や傾斜を常に意識して体のバランスを取らないといけないし、場所が場所だけに有毒の害虫とかそういうものにもある程度意識を払わないといけない。
ただ、ここは森である割にはそういう意味では妙にさわやかだった。毒虫であるかどうかは別にして、気持ちの悪い虫がいることも覚悟していたが、意外にもそういうものはほとんど見当たらない。羽虫はいるんだけど、音もなく漂っている感じでなんだか現実感がないとすら言える。身近なところに、こんな不思議な生き物がいるとは思わなかった。
道なき道を行くこと数時間。僕はお腹が減ってきた。手っ取り早くエネルギーになるお菓子みたいなものをなぜ持ってこなかったのだろう?泣き言を言ってもしょうがない。とりあえずネリーの案内で森を抜けきるしか生還する道はない。大げさか。でもまぁ、ちゃんとした食べ物にありつくには森を抜けるしかないことは確かだ。
さらにいくらかの時間が過ぎた。その長さはもう僕には曖昧だ。疲れのあまりネリーにかける言葉も口数が少なくなって、ちょっと森を見くびっていたことを後悔しはじめたころ、やっぱり木々がちょっと少なくなって空が見え、雑然と不法投棄された家電やバッテリーが広がる場所があり、狭い道が延びていた。抜けたらしい。
細い道から、センターラインがある程度には広い道に出た。どこなのかしばらくわからなかったが、少し歩いたらうちの最寄り駅と行かされていた塾の最寄り駅の間の駅に着いた。なるほど、地図で確認してなんとなく把握はしてたつもりだったが、この2駅の間は線路がものすごく曲がっていて、地図で見るとその曲がっている中に森がめり込んだように見える場所だ。この辺が、この路線と、塾の連中が使っている私鉄が一番近づいている場所ということになる。だから、そこから少し歩いただけで私鉄駅前に出た。この駅は多分この市内最大の駅だろうな。特急も停まる駅だし、駅のガード下や周りには店がいろいろあった。確かにJRの駅は見劣りするだろう。こんだけ近接してあれば2両編成で単線で30分に1本の電車を選ぶ物好きはいないな。終点は同じターミナル駅なんだから。
いま来たこの道を、バスは走ってくる。JRの踏切を越えたらすぐに信号のある交差点がふたつある。そしてこの私鉄駅前のバスロータリーに来る。踏切・信号・信号でふさがれてるから、朝なんか特にバスがダイヤどおりに動かないのは当然だな。そしてこのロータリーはいろんなバス路線の起終点になっていて、バスだけでいろんな方面に行き来できる。確かにこれは便利だ。
うちのある辺りから、この駅までのバスを便利にしすぎたらこの私鉄路線のひとり勝ち状態になるかも知れない。狭くてなおかつストップしなきゃいけない場所も多いこの道路は、JRの線路がうねってそれにへばりつくように森がこぶのように盛り上がっているところを回り込むから、直線距離で言うと大したことない1駅の距離をかなり損しながら走っていることになる。1駅間の距離としてはずいぶん長いことも確かなんだが、これだけの時間を行軍して移動できた時間が電車で言うと1駅というのもなんだか若干虚しい気分になった。でもまぁ、今日の目的は森を楽しむことだしな。
「森は楽しかったかい?ネリー」
そう声をかけると、ネリーはいつもの仕草でコクコクと頷いた。
「そうか。それが何よりだ。だけど僕はもう正直疲れた。帰りは電車で帰らせてくれるかな。バッグに入ってくれるか?」
少し残念そうに、ネリーは僕のバッグに収まった。
2両編成の列車を待って、僕は家の最寄り駅へと向かった。電車に乗ってさえしまえば数分のこの距離を移動するバスを便利にしないのは、便利にしすぎたら人は全部私鉄の方に集まって市としての機能がまるごと引っ越しということにもなりかねないからかな、などと僕は考えをめぐらせた。
自宅の最寄り駅に着いたときには僕の空腹はもう限界で、家に帰るまでの時間が我慢できなかったから例の長崎ちゃんぽんの店に入り、僕の定番の味噌ちゃんぽんと唐揚げを頼んで食べた。なんだか久しぶりに、心底「旨い」と思って食べ物を食べた気がした。本当は、今日はお金を使うつもりはなかったんだけど。
でも、超インドア派な僕もこうやってたまに外で時間を過ごすとそれなりに楽しいこともあるもんだな。なによりネリーが活き活きしている。これから先ずっと一緒に過ごすためには、やっぱりネリーの好みに付き合うことも必要になってくるだろう。となると、大学に進学したらどの辺に住めばいいのか?大学のレベルや校風も重要だけど、どこにあるかというのも大学選びのポイントのひとつには確実になるな。悩みの種でもあるけど楽しみでもある。
家に帰ったら自覚したが珍しいことをして疲れてしまっていた僕は、食べるものも食べたし眠たくなっていた。だからシャワーだけしたら寝てしまった。親ふたりと顔を合わせても面白いことはないし、それで良かったと思う。
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