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僕が行っている高校は、僧侶の養成学校が大元であって、実質的な運営主体はある仏教のとある宗派だ。だから校長というのはその宗派に属する大きな寺院の住職が持ち回りで務めることになっていた。新入生の親を対象とした学校説明会に出た母が言っていたが、校長がしきりに「ネズミはありません」と言うので何のことかと思っていたら「虐めはありません」と言っていたということらしい。このときの校長は東北のかなり田舎の寺の住職だったそうだ。
だが、校長から末端教員に至るまで、学校関係者がこんなことを言っているなら、それは嘘をついているかとんでもない無能だと自白しているかのどちらかだと思う。だって、程度の差こそあれ虐めのない組織なんてないと思うから。思い出したくないから詳細は言わないが、中学の時に教師の目の前で虐められていたのに「和気藹々と遊んでた」ことにされたことが僕にはあった。
教師にとって、自分が関わる生徒の間で虐め問題があるというのは失点以外の何ものでもないから、本質的に教師というのは虐め問題から必死で目をそらすのがもう習慣づいているんだろう。僕は教師というのはそういうものだと思っていた。
高校での僕の担任は厳しめの先生で、あまり生徒から好かれてはいなかった。ただでさえ好かれていないその担任が、ある日「自分が抱えているクラスに問題があるのなら、教師には強権を振るう権利がある」と強い言葉で宣言した。ホームルームが済んだら、クラス中がその担任の発言に対して反発や嘲笑をしたが、僕にはなぜ突然そこまで強い言葉を使ったのか疑問に思えた。
そのときクラス委員長だった僕を、その日担任は「放課後にちょっと来てくれないか」と言って職員室に呼んだ。そこで初めて、クラスに虐めがあることを知った。言われてみれば、クラスの「ちょい悪」な感じの連中があるクラスメイトのことをボロカスに言っているのを何回か聞いた。裏で何か、もっと陰湿で直接的な行為があるのかもしれないな。
高校に入ってすぐの身体検査の時だ。身長と座高を測るから、隠すこともできず如実に脚の短さが表れる。お互いにまだ顔と名前が一致してなくて、ただこの苗字のやつはクラスメイトだ、というところしかわからないから、虐めの対象になっていたそのクラスメイトは「純日本人体型」である同級生の話をしていて、何名か挙げた名前の中には僕自身が入っていた。別に嫌だとは思わなかった。変に気を遣われるより、明るくネタにしてもらった方が救われる。だから僕は「それ俺だって!」と突っ込んで終わったのだ。
そういう彼の性格が鼻につくように思うやつには思えたのが原因かもしれないが、その虐められていた彼は担任に相談して、結果担任はそうやって直接的な言葉を使わずに虐めている連中に圧力をかけたわけだ。そして、そのことについてどう思うか、クラス委員の僕に意見を求めるために僕を残した。そのとき僕は、その問題をどうするか、何か解決策をすぐに思いつくことはできなかった。
あとから考えればだけど、4名ほどが虐めていたらしいそのクラスメイトの他に、特にひとりがイビってネタにされていたおとなしいクラスメイトがひとりいた。問題の4名がやっていたのは明確に虐めだったと思う。だけどもうひとりの方は、ただやんちゃが暴走しただけだと思う。ちょっと血気盛んな男兄弟なんかだったらままあることだが、おとなしいその彼にとっては苦痛だったと思う。そっちの件について僕が「やんちゃが暴走しただけ」と評価するには理由がある。やっているやつが、納得がいかないことがあったら平気で教師とも喧嘩するという、ある意味まっすぐなやつだったからだ。良くも悪くも「やりすぎる」やつなんだろう。だけど、誰かが持って来たスポーツ新聞に載っている官能小説を朗読させられたりしていたおとなしい彼にとってはかなり苦痛だったと思う。
このおとなしい彼は、ただ「いい大学」を目指してこのシルバークラスに来たわけではなかった。確かサックスだったと思うが、何か楽器をやっていて、芸術大学で音楽を勉強したかったらしい。別の人から聞いた話だが、美術でも音楽でもそうだが実技の方で飛び抜けていい成績を出す生徒というのは滅多に現れない。だから芸術系に進みたいと考えている高校生の進学は、結局ライバルとどこで差をつけることができるかというとお勉強でしかないそうだ。だから彼は、ここに来たのだ。
こんなクラスメイトたちをなんとなく気にかけながら、僕が正直思っていたことは「虐められるのが僕でなくてよかった」だ。前の中学での剣道をしていたころの話をしたときにも言ったが僕は運動神経が良くない。世に言う「優等生」はたいていスポーツもできるという事実を考えれば、僕は欠陥を抱えていると言っていい。だけどそれをネタにイビられることが、中学のころと違って僕にはなかったのは、勉強の方の成績がとても伸びたことで、僕の運動音痴をいじる方も「おまえも、結構ダメだよな」的な冗談ですむようになり、僕は僕でそれを冗談で返せる余裕ができたことが大きい。
あんまり言いたくない事実ではあるが「虐めはよくない」という正論は、虐められる心配がない安全圏にいる人だからこそ言えることだと思う。現在虐められる立場にない人でも、虐められている人を庇うことによって虐められる側に転落する可能性があるんだったら手を差し伸べる必要はないと思う。我ながら嫌な性格に育ってしまったなと思うが、人間誰しもが自分の無事を何より大事に生きるのが当然であって、自分の無事のために誰かを犠牲にすれば確実に一番安全な道を行けるのならば、その誰かを犠牲にするべきだと思う。そこで犠牲になった人は「犠牲にした人が自分の安全のために取る行動」という災いから身を守る力がなかったから犠牲になったんだ。蟻を踏み潰すことにいちいち心の痛みを感じていては、歩くことすらできはしない。
僕だって、そのときはまだ家に帰れば僕の両親という他人が、自分たちにとって一番安全で楽な道を行くために踏み潰される蟻だった。子供というのは、いつの世も親によって踏み潰されるために存在する蟻なのだろう。後に僕はある心理学者のエッセイを集中的に読むことになることは前にも話したが、そういう書籍に出会って改めて思った。子供は親に踏み潰されるために存在する蟻なのだから、子供が一人前の大人になる第一歩は逆に親を蟻として踏み潰す事から始まらざるを得ないのだ。容赦なく叩き続ける親の攻撃から身を守りながら子供がすべきことは、安易な反抗ではなく自分の力を溜めながら虎視眈々とチャンスを待ち、チャンスがやってきたときには全力で親を叩き返せる力を黙々と磨き続けることだ。
このとき、僕は誇りに思っていた。ただの「踏み潰される蟻」と違い、僕は重要な事実をひとつ知っている。それは、自分より弱いものを守ろうとするとき、蟻は蟻なりにより強い攻撃にも耐えることができるという強さを持つということだ。言うまでもなく、これは親に内緒でネリーと一緒に暮らして学んだことだ。
相変わらずネリーが何ものかはさっぱりわからないけど、いろんな意味で僕の心の支えだったしいろんなことを教えてくれた先生だったことは間違いない。
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