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 人間年を取れば、当然だがいろんなところが老いていく。容貌が老けていくのは誰にとっても楽しいことではないだろうが、それ以上に切実なのが体の機能が衰えていくことらしい。
 幼い子供のころに親の庇護というものを失って、あとは根性だけで生きてきた祖母が、成人するまでの過程で精神的にも肉体的にも異常なまでの強靱さを持つ、持たざるを得ない人生を送ってきたことは確かだろう。そんな人にも、老いというのは忍び寄るものだ。精神的にもおかしくなり始めていたが、内臓の方も弱ってきた。母が言うには、常にお腹に違和感があり、排泄時にゼリー状のものが大量に排出されているそうだ。
 というわけで、祖母は店に立っている時間よりも通院している時間の方が長い状態に陥り、最終的には入院した。このことで、母は朝から仕事に行き、終わったら店に直行して夕食のお客さんを主にして接客したあと、病院へ行って介護、という生活になった。
 僕には、詳しい事情はわからない。だから想像するしかないのだが、気が強い祖母は自分が弱ったときのことなんて考えることもいやだったろうし、十分な保険にも入ってなかったんではないだろうか。だから、元々乏しいうちの家からいくらか持ち出しで入院させていたんではないかという気がする。というのも、このころうちの貧乏は輪をかけてひどくなり、僕の晩ご飯のおかずは片身の塩鯖の半分、つまり鯖全体の身の4分の1なんていう事態になっていたからだ。なんならそれに思いっきり醤油でもぶっかけて、あとはその味でひたすら米を詰め込めという、それが僕の食事だった。
 仕事に出て、店に出て、その後介護をしている母が疲れていなかったはずはない。だが母は嫌なことは嫌、無理なことは無理と拒否をするということを嫌った。家族だから、それだけの理由でどんな理不尽でも受け入れる、それが正しいと思っている人間だ。
 別に家族に限った話ではないが、何らかの集団に所属し始めて、そこに嫌な人間がいる場合、可能ならばその集団から離脱する、それが不可能ならば監督者に申告してその嫌な人間との関わりについて、なるべく接触しなくていい措置を講じてもらうなど改善してもらう、そういうことをするのが、僕には当たり前に思える。
 だけど、例の中学生の時行かされた塾なんかが典型だが、これこれこんな嫌なやつばかりだ、と僕が言ったら、母の答は決まっていた。それは「そやけどな、嫌なやつはどこにでもいよるえ」だ。だから何?我慢しろってこと?他人に嫌な思いをさせた者勝ち?どうやらそういうことが言いたいらしい。この奇妙な理屈で、嫌な人間に対しては逆らわないように我慢しているのが正しいと思い込まされていた僕の性格が、子供のころから虐められがちだった僕のこれまでの人生と無関係だとは言えないだろう。
 1日8時間の事務仕事、その後店に出て晩ご飯を売り、さらにその後病院に行って、介護という名の奴隷労働。そしておそらく、その一番最後の部分に関しては費用は自分からの持ち出し。そんな生活が愉快なはずはないと僕は思う。愉快でないなら愉快でないと表明して不愉快を避ける方向で動かなければ、不愉快をどんどん押しつけられるだけだ。でもこのころ母は「これまでは『おばちゃん』と言いながら来ていた常連客が『姉さん』と言って入ってくるようになった」と喜んでいた。何がありがたいのやら。
 父は相変わらず、朝仕事に出て、定時に終えて帰ってきたら、プロ野球を見ながら酒飲んで寝る、淡々とした生活を送っていた。いきなりこんな話をするようだが、僕の父には食べ物が美味しいかどうか、という基準は「醤油の味がするかしないか」しかない。父にとってこの世の中で至上の食べ物は「マグロの刺身」で、もちろんトロを一番好むが、それがなければ赤身のサクを自分で切る、たとえそれがいくらか色が変わりかけていようとそれを食べたし、水で煮てツナ缶の代わりにするために母が買っておいたマグロのスジからも、掻き落とすようにして赤い部分を分けて食べていた。
 だけどそこまでこだわるマグロにすらこのころの父はありつけず、基本的にわさび醤油で食べる何ものかがなければ酒が飲めない父の肴は、見切り品のハマチ、イカ、タコなど順調にグレードダウンし、最終的にはスライスハムとかちくわとか、そういうところまで行っていた。それをわさび醤油につけて食べ、食べきっても飲み足りないときは残ったわさび醤油を指につけて舐めながら飲んでいたのだから、いじましいを通り越して唯一神「わさび醤油」に終生忠誠を尽くした男の物語として感動秘話に仕立て上げることすらできるんじゃないかと思う。
 しかし父のそんなわさび醤油とラブラブな日々にも、祖母の介護問題が忍び寄る。平日昼に祖母は病院から電話をかけてきて、僕が電話を取ったら、母か父を電話に出せ、すぐに病院まで来させろと受話器越しに僕を怒鳴りつけた。相変わらず、父は母に強硬に祖母への顔出しを迫られて、不承不承日曜日に足を運ぶ、という状態だったのは変わらないので、祖母の怒りは頂点に達していたらしい。
 毎晩夜遅くなってからではあるが、母は毎日病院に顔を出していた。惚けも手伝って周りに存在するもの全てに対して怒りを持っているような状態になった祖母は、看護師のちょっとした不手際に激怒し、土下座を強要したらしい。その看護師に対して、母は平謝りしてきたそうだ。そういう話も伝わってくると、父はますます顔出しを嫌がるようになった。
 そして、決定的な事件は起こる。
 母にとって、病院まで出てくるならば自分の長兄にも挨拶に行って欲しいというのがセットになっていたのは前にも言ったと思う。ある日曜日、父がひとりで病院に行き、その帰りに母の長兄のところに行ったんだそうだ。伯父は「今日は大して忙しくもないし」と言って店を早仕舞し、父に酒をおごってくれた。久方ぶりに飲む上酒、そして一緒に食べる旨い肴。おごってもらってこれにすっかり満足した父は「旨い肴と旨い酒が欲しけギアに基にギアに基に兄貴に集ればいい」という誤った認識を学習した。
 それから大して日も経っていないある日のことだ。東京から、父の実の兄が突然やって来た。子供のころから父と一番気が合っていたというこの人は、父に輪をかけて無能で、輪をかけて貧乏で、輪をかけて酒と女にだらしなかった。家族だろうがなんだろうが、没交渉にしておかないと自分の価値がどんどん低くなるような人間だろう。しかし、子供のころからの縁というのは恐ろしいもので、父はこの人と会うことを他の誰に会うことよりも楽しみにしている。
 酒は飲みたいが金を持っていない男が、もっと飲みたがっていてもっと貧乏な男と一緒に酒宴を楽しみたいと考えました。この男はどうしたと思いますか?誰が考えたって結論は明らかだろう。挨拶という名目で伯父のところに行ったこの馬鹿ふたりは、まだ昼日中だというのに店先に雁首を揃えて帰ろうとしなかったというのだ。
 で、こういうときには「今日は酒出ませんよ」と本人に言わないのが母の兄弟姉妹だ。結局のところ、後日母は「あの人は何を考えてはるのや?」とものの見事に「ドンを突かれる」結果となり、これをネタにひとくさり喧嘩だ。
 僕には後にある心理学者のエッセイを集中的に読む時期が来るのだが、この心理学者は子供のころに「酒と女の金は自分で払え」と教えられて育ったそうだ。僕にはこの言葉は真理の一端をとらえていると思える。少なくともこういうとき金がないから誰か他人に集ろう、なんて発想するやつは間違いなくクズ人間だろう。
 こういうわけで、父はますます出不精になった。まるで結界を張られたところに魔物が近づきたがらないかのように、伯父の店や祖母の入院している病院があるこの辺一帯を避けるようになった。
 息子は寄りつきゃしない、嫁も遅くならないとやってこない、看護師もどんくさいやつばかりで毎日世話されてるだけでイライラがつのる、そんな祖母にとって、自分の話を聞いて理解してくれる人がひとりだけいて、その人は毎日のように早くからお見舞いに来てくれて自分の怒りや嘆きに共感してくれる。そういう人がいた。そう、僕が「穏やかで上品そうなおばあさん」と思った、あの人だ。僕ら家族が自分の生活を丸々犠牲にしなければ絶対に付き添っていられない昼間の長い時間、この人は祖母に寄り添って、そして祖母の心を確実に手中にしていた。