気楽にまったり、今日も空色。

はじめましてのご挨拶

就労継続支援B型カチカの利用者、nm(ねむ)と申します。

統合失調症と双極性障害と戦う、一人の人間です。

自分のことを好きになれない私が、自分のことを少しでも好きになれますように。

大嫌いな明日が、少しでも楽しみになりますように。

そんな思いから、初めてエッセイを書こうと思いました。

私の文章が誰かの明日を照らす灯火になればいいな。

 

 

まず初めに、私の経歴をお話していこうと思います。

平凡で幸せで、でも後悔ばかりの半生、病気発症前までの思い出を綴っていきます。

 

 

生まれも育ちも静岡の私は、温かい両親、兄、それから父方の祖母と、大工をしていた父方の祖父(私が生まれる前に亡くなっています)が手ずから建てた家で育ちました。

小学生の時の私は、今と別人格なのではないかと思うくらい活発でした。よく骨を折り、ギプスで固定された腕で登校すると、その固い腕を机に打ち付けて力技で男子のわがままを鎮める、という、「力こそ正義」を掲げる子供でした笑

ガキ大将で、人を助けることもあれば、気の強さがあだとなり対立することもありました。人間関係にはそこそこ苦しみましたが、今いる5人の友人のうち、4人は小学校で仲が良かった幼馴染です。その点では恵まれたなぁと思います。

小学生の時打ち込んでたものも、木登りや泥団子づくりを極めるというもの。友達含めて笑いのツボが浅く、公園で馬鹿笑いしながらいろんな遊びをしました。

この時は三歳になる前から通わせてもらっていたピアノ教室のコンクールでいい成績を残すなどして、「ピアノが弾けるのはnmちゃんだね」と言われるのが嬉しかった覚えがあります。

 

中学生の時、私の人格を変えるくらい悩ませることができました。やはり人間関係、さらにいえば上下関係です。

吹奏楽部に入った私は、気ままな先輩と、まだ一年生だから真面目にやらねば、気負う私が対立し、同じ学年の女の子たちからも白い目で見られるなどする上、得意だったピアノもどんどん弾けなくなり、「私には何もない」と感じた中学校の最初の一年間を過ごしました。この時変声期が始まり、声が高くなったこともあり、「男子に媚びてる」と嘲笑されたのも歪みに拍車をかけました。小学生の時は直接言って言い返して、という「喧嘩」ができたのに、先輩相手だとそれができない。そのもどかしさに、過食嘔吐や自傷行為が始まりました。

それでも一番打ち込んで楽しかったのはやはり部活動。気の合わない先輩や同級生が退部したことで空気が吸いやすくなったこと、指導に来てくれる先生に認められたいという向上心、そのどちらもあったのでしょう。中学一年生で担当していたクラリネットという楽器の、主にメロディラインを吹く「1stパート」になりました。東海大会を目指した中学三年生の夏の県のコンクールでは、惜しくも東海大会に手は届きませんでしたが、県大会で銀賞という結果を残しました。これは、当時の出身中学の過去成績の中では上から二番目に良い成績でした。

その地区で一番近くて、それなりの偏差値があったから、という理由で進学した高校で、私はまたしても凹むことになります。

 

高校で、私は勉強ができない、というレッテルに悩まされました。

中学まで、要領が悪かった私でも宿題の範囲を繰り返しとけばいい成績は取れました。しかし、高校でいい成績を残せたテストは、高校の中間テストまでだったでしょうか。そこからどんどん成績は下がっていきました。

中学と同じく吹奏楽部に入ったものの、部活動と勉強の両立は思ったよりも難しく、泣きながら膨大な量でかつ難易度の高い宿題をこなし、日付を越えてから半分寝るようにして湯船で温まり、気絶するように眠る日々が続きました。

堪え性のない私にはなかなか厳しい毎日。すぐに心が折れてしまいます。

宿題はやらなくなりました。部活の朝練にも顔を出さなくなりました。

宿題から出題されるテストは見るも無残な結果に。この時、薬剤師を目指していた私は、高校三年生の夏まで粘りましたが成績は上がらず、難易度を下げて管理栄養士になろうと決めました。この出来事も、プライドだけは高かった私にとってはショックな出来事でした。

部活は高校三年生に上がるときに卒部、という形だったのですが、とても悔いが残りました。今でも後輩や同輩たちから「そこ全然練習できてないじゃない!」となじられる悪夢で飛び起きます。

 

私のメンタルに大打撃を与えたのは、母方の祖母の急逝でした。

大学受験を控えた、忘れもしない高校三年生の年の十月一日。二十時きっかり。

誰よりも大好きだった祖母の死が私を励ますことなんてなくて、「おばあちゃんのために頑張ろう」とか、「おばあちゃんの自慢の孫だったから大丈夫」という言葉が、辛くてたまりませんでした。先ほどの「管理栄養士になる」というのは、祖母のなきがらを見た時に決めました。

ふくふくで幸せそうだった祖母が、一回りも二回りも小さくなって見えたのです。

夏の間の食環境の悪さが、祖母をやせ細らせたのではないかと聞き、祖母の敵討ちのような気持ちで、「亡くなるその時までおいしいご飯を食べさせてあげられる人になりたい」と思ったのでした。

第一志望こそは落ちたものの、第二志望に受かり、何とか迎えた長崎での大学生活。一人暮らしがスタートします。

静岡から遠く離れた長崎で始まった大学生活は、それなりに楽しかったです。気の合う学友たち、多彩な学校行事、部活動のようだった和太鼓サークル。管理栄養士を目指していたのですが、調理実習が多かったこともあり、みんな基本的には自炊。手作りスイーツを持ち寄って昼休みにつつきあうなんてこともありました。

ここでも少しずつ勉強と家事が頑張れなくなる自分に嫌気が差しましたが、二月の期末を終え、単位を落とすことなく一年を終えることができました。

楽しかった大学生活に、暗雲が立ち込めるのは、大学二年生のゴールデンウィーク中のお話なのですが、これはまた次回……。