月の子の手が砂時計をひっくり返す。かたんと音を立て、その砂時計はテーブルの上に。
落ち続ける砂はまるで生命のように、一度落ち始めたら終わるまで止まることがない。
そんな砂時計と生命の違うところは、終わるまでの時間が目に見えてわかることと繰り返されること。
しかし、誰かが砂時計をひっくり返さない限り、その砂時計は時間を計ることは出来ない。

「やあ、旅人さん」
月の子がいつものようにその旅人に笑みを見せた。
「……ここは、どこだ」
その月の子の言う旅人は、見るからにどこにでもいるようなスーツ姿の男性だった。
辺りを見回し、そこが今までいた場所とは違うのだと男性は理解する。
「どこって、どこでもいいじゃない」
月の子はのんびりとそう言った。
しかし、男性は左手首にある腕時計を見ると、ため息を吐く。
「帰らなければ。帰り方を教えてくれ」
「いつかは、教えてあげる。でも、そのためにはまず……」
月の子は真っ白な空間からテーブルや椅子、ティーポットなどを出してそちらの方を指さした。
「ちょっと、付き合ってよ」
「嫌だ。ただでさえ疲れが溜まっているのに、どうして知らない子どもの世話なんか……」
「えー、いいじゃない。それにボクはお世話なんかしてもらわなくても大丈夫だよ。ね、少しだけ」
「断る」
「どうしてそんなに急ぐの」
月の子の純粋な質問に、男性は答えようとする。
「いいか。私は忙しいんだ。自分のためはもちろん、家族のためにも働かなくちゃいけないんだよ」
「そう。まあ、無理にとは言わないけれど」
あっさりと身を引いた月の子に、若干その男性は驚いた。
このくらいの少年というのはもう少し、自分勝手なはずなのにと。
「……話のわかる君のような少年は嫌いじゃない。さあ、教えてくれ、帰り方を」
「わからない」
「……はあ?」
「旅人さんによって様々だからね。一概にこの方法ですなんて、言えないんだよ。ボクも。まあ、外の時間とここの時間の流れは違うから、お茶くらい付き合ってくれても罰は当たらないと思うよ」
男性は周りの真っ白な空間を見て、確かにこんな不可思議な世界ならばそれもあり得ると思い、仕方ないと月の子に付き合う。
「こんなよくわからないところで、得体の知れない子どもとティーパーティーか」
いよいよ自分も頭がおかしくなったのかもしれない。きっと働き過ぎだ。無事この空間から現実に戻ったら、残っていた有給休暇でも消化するか。
そんなことを思いながら男性は椅子に座る。
「旅人さんには……、そうだなぁ。チョコレートはお好き?」
「……嫌いではない」
仕事の合間に少し食べるくらいなら男性はチョコレートが好きだ。
(最近はあまり食べなくなったが……)
「じゃあ、チョコレートの香りがするフレーバードティーでも飲もうよ。きっと甘い香りに思い出すこともあるだろうから」
「何を馬鹿な」と思いながらも、男性は出されたチョコレートの香りのする紅茶を飲む。
すると不思議なことに、今に至るまでの記憶が次々と脳裏に浮かんでいく。
中でも、思い出していて何とも言えない感情を持ったのが、部下との接し方で悩んでいた頃の記憶だった。
伝わってほしいのに伝わらないもどかしさ。社会人になって、初めて悔しくて涙を流した夜。
今は、どうだろう。あの頃と同じくらい、真摯に部下や同僚、上司達と向き合うために努力しているだろうか。
……時間にばかり追われて、大切なことをおざなりにしてはいなかっただろうか。
もっと、効率のいい仕事なんかじゃなくて、人として大切な何かを……。
「俺は、間違えていた……?」
「さあ、どうだろう。でも、確かなことがひとつあるよ。それはね、旅人さんが自分のことを見つめ直せるということ。誰にでも出来ることじゃないよ」
「それでも、もし俺がこれまで」
「ストップ。後悔するのも好きにしてほしいけれど、もう太陽が昇る時間のようだよ」
「……太陽が、昇る」
窓から眩い光が差し込み、男性を包み込む。
「少年、お前は誰なんだ」
「何だろうね……。さあ、いってらっしゃい。旅人さん」
男性に向かって月の子は深々と頭を下げた。

男性が目を覚ますと、そこは何の変哲のない自分の部屋だった。
先程まで、不思議な体験をしていたような気がするが、思い出せない。
「甘い香り……」
ふんわりとチョコレートの香りがした。
だが、どこにもチョコレートはない。
しかし、その香りが会社の仲間達の顔を思い出させた。
「……そうだ。たまには会社の皆で、飲み会でも開くか」
自分は嫌われているかもしれないから、付き合ってくれる者などそういないかもしれないがと笑いながら、男性はスマホで予定を見ようとした。
「しまった。完全に遅刻だ!」
男性は慌てながら支度をする。
そして支度を終えると会社に向かって電車に乗り込み、満員電車に揺られながら少しばかり考える。
もう少し、人を大事にしてみようかと。
いつも結果を求める男性だったが、電車の窓から見える太陽を見てふと思う。
過ぎ去ってしまった時間は取り戻せないが、今から訪れる時間は、まだ何も決まっていない。
結果を求めるのもいいが、その過程を飛ばして結果を出すことは出来ないのだと。
「さて、今日も頑張るか」
男性がいつも感じている疲れが、この時は軽く感じられたのだった。