僕の隣の家には、「透明になる薬を発明した!」とうそぶく、怪しげなジジイが住んでいる。そいつは、近所のガキどもの間で「マッドサイエンティスト爺さん」、略して「マッドじい」と呼ばれていた。そのマッドじいは、ガキどもの目に留まれば、たちまち「嘘吐きジジイ!」とか、「不透明ジジイ!」とか、からかいの的にされていた。大人達の対応もまた、否定的なものだった。マッドじいが外を出歩いていても、一切声も掛けず冷ややかな視線を向けるだけなのだ。僕も含め周囲の住人たちは、ジジイのぬかす事を全くもって信じていなかった。

 とはいえ、一部にはマッドじいの言葉を信じる者もいた。曰く、

「橋の向こうから歩いてくると思ったら、急に『ふっ』と姿が消えたんだ。どうしたものかと目を離した次の瞬間、目と鼻の先に爺さんが現れたんだよ!」

という事だ。

 でも、僕は絶対に信じたりしない。

「ニヤニヤ顔のあのジジイがいつの間にか背後に立ってて、スカートの中を盗撮しようとしてたのよ!」

と、怒りをあらわにするクラスメイトの女子もいたので、仮に本当だったとしてもあまりいい気はしないし。だから僕は、この夏休みを機に法螺吹きジジイの家に忍び込んで、ギャフンと言わせてやろうと考えたんだ。

 

 手始めに、二階にある僕の部屋から奴の家の様子を窺ってみた。そしてすぐに、僕は一つの発見をした。他の部屋は何ともないのに、一部屋だけ面格子が取り付けられている部屋があったのだ。

(あの部屋は、絶対に何かある!)

 よほど大切なものが保管されているに違いないと睨んだ。

 何日か探偵気分で張り込みをしていると、マッドじいは一度外出すると、一時間は戻って来ないらしい事が分かった。この次、奴が外出した隙に家へ近付いてみよう。奴は一人暮らしだから、当人さえ居なけりゃ、その場で侵入する事だって叶う。

 次の日、部屋で宿題をやっつけていると奴が外出するのが見えた。僕は、すぐさま鉛筆を投げ出してマッドじいの家へと向かった。そして、真っ先にあの面格子に囲まれた窓へと近付く。部屋の中を覗き込んだが、厳重にカーテンが引いてあって全く見えなかった。

(仕方無い。他の窓から中の様子を窺おう)

 隣の窓に手をかけた。するとどうだろう。何と、するっと戸が開いたではないか!

「しめた!」

 僕は、辺りを見回して誰も見ていないのを確認すると、素早く窓から忍び込んだ。その部屋は三畳くらいの広さで、実に殺風景なものだった。椅子とテーブルくらいしか置かれていないのだ。あまり使われていない様子で、薄く埃が積もっている。ドアに手をかけると、これまた簡単に開いた。例の調査により、奴はまだ戻って来ないはずなので、僕は家の中を探索する事にした。

 部屋の外には廊下が続いており、少し進むと、右手に見るからに怪しげなドアを見つけた。目にばってんが付いたステッカーが貼られている。

 まさかとは思うが、駄目元でドアノブに手をかける。

 ガチャリ。

「うわ、不用心かよ」

 思わず声が出た。

 分厚くて重量のある物々しい扉。それが予想に反して、たかが中学生の手であっさりと開けられてしまったのだ。

 先程の部屋とは違い、だだっ広い部屋だった。テレビドラマでよく見る研究所の様に、机にはビーカーや試験管等の器具が散らかり、壁際には天井まで届く背の高い棚があった。そこには様々な薬品が収められており、日本語表記のラベルが貼られている。それらは学校で習う、僕でも分かる様な代物ばかりだった。

 部屋の中を物色しているが、マッドじいのほざく「透明になる薬」らしきものはなかなか見つからない。

「あのジジイ、本当は作ってないんじゃねぇか?」

 悪態をつきながら近くの椅子に身を放ると、薄緑色の液体で満たされた小瓶が目についた。今まで気にも留めていなかったが、部屋に入る時に見た例の目のマークが付いている。手に取ってよく見るも、何の薬かさっぱりだ。他の瓶と違って、ラベルには訳の分からない記号が並んでいた。

(何だこれ……目にバツ印……?)

「まさか」

 これが、「透明になる薬」? いや、「目に入れるな」というただの注意喚起か?

 元の場所へ戻そうとしたその時、玄関の方からギィとドアが開く音が聞こえた。足音がこっちへ近づいて来る。

(嘘だろ……マッドじいの奴、もう戻って来やがったのか?)

 腕時計を確認するが、まだ一時間も立っていなかった。早過ぎる。

 こんな所で見つかっては、計画が水の泡だ。

「ちっ」

 それなら、これだけでも……!

 僕は戻しかけた小瓶を握りしめると、急いで侵入口の窓を飛び越え、一目散に自宅へと逃げ帰った。

 息を切らしながら自室のドアを後ろ手にバタンと閉め、握っていた手を開いた。そこには、汗に塗れた小瓶が確かにある!

 まずは、小瓶の外観を改めて見つめた。それは五センチ程の高さで、透明なガラスで出来ている。瓶には目にばってんのステッカーと、僕には読めない記号が羅列されたラベルが貼られていた。

 内容物は、得体の知れない薄緑色の液体。恐る恐る瓶の蓋を開けてみると、メロンソーダの様な甘い香りが漂ってきた。

 ん? これって、もしかして本物のメロンソーダじゃないのか? マッドじいの奴、コップがないからって、こんな実験用具に注いだのか?

 これが仮に「透明になる薬」に仕立てたものだったなら、マッドじいの嘘を暴く事が出来る!!

 僕は思い切ってその中に指を突っ込み、舐めてみた。やっぱりメロンソーダの味がした。

 これで確信がついた。マッドじいは、嘘つきだったんだ!! ジジイの嘘をより確かなものにする為、僕は一気に小瓶の中身をぐいと飲み干した。

 何も起こらない……!

「やった……やったぞ! 僕は勝ったんだ!!」

 その晩は、喜びを噛み締めながら眠りについた。

 翌日。

 気持ちの良い朝が来た。今日は夏休みの宿題はいいにして、ダチ達に自慢しに行こう。皆、何て僕を褒めちぎってくれるかな。今から楽しみだ。

 そう胸を躍らせつつ、台所へ駆け降りた。

「おはよう、母さん! 今日の朝飯も旨そうだね!!」

「……」

「この人参、凄いね。飾り切りって奴?」

「……」

 変だな。いくら待っても返事がない。

「――母さん? 聞いてる?」

「おかしいわね。確かにあの子の声が聞こえたんだけど……疲れてるのかしら?」

 母さんは、そう言って何故かキョロキョロと辺りを見回している。まるで、何かを探している様に。

「おいおい、冗談はよしてくれよ! いただきま~す!」

 朝飯を食べ終わり、歯を磨きに洗面台に立つと、僕は尻餅をついてしまった。

「う、嘘だろ!?」

 鏡に映るはずの自分の姿が、ない!

(マッドじいの言っていた事は、本当だったのか!? それじゃあ、どうやって戻ればいいんだ……?)

 僕は泣きそうになった。

 いや、こういう時こそ、冷静に考えなければ! 噂によると、マッドじいは短時間で元に戻っていた。ならば、時間が経てば元に戻るのではないか? 僕は、家で姿が戻るのを待つ事にした。

 夜になったが、一向に身体が戻る気配がない。

 僕は焦った。

 何故なら明日は、僕が全身全霊で応援している、駆け出しアイドルのCOSMOちゃんの握手会があるからだ。これは緊急事態だ! 何とかして明日までに元に戻らなければ!!

 僕は、大急ぎでマッドじいの家に駆けていった。マッドじいに正直に謝って、元に戻してもらおう。

 しかし、マッドじいは家にいなかった。

 何故だ! 何故いないんだ!! いつもは昼間に外出するはずなのに! 何故今日に限って、夜に出掛けているんだ……!

 僕は、冷たいコンクリートに力なくへたり込んだ。

(このままじゃ、COSMOちゃんと握手出来ないじゃないか!!)

 僕は、沈む気持ちを何とか奮い立たせ、普段マッドじいがうろつくルートを、無我夢中で探し回った。しかし、どこにもいない。

 じゃあどこに……? 僕は頭をフル回転させ、マッドじいが出没しそうな場所を懸命に考えた。

 奴が大好きな女子高生のいそうな所……。

(そうだ! 「ファッションプラネット」だ!!)

 あそこは、ティーンズ向けのファッションブランドが揃う、県内最大級のファッションビルだ。

 僕は、がむしゃらに走った。

 ファッションプラネットに着いた。併設の広場では、ちょうど夏祭りが開催されていて、いつも以上に人通りが多かった。道は、浴衣を着たり、ミニスカートを穿いたりして、開放的な服装をした女子高生で溢れ返っていた。

 僕は、辺りを見回した。マッドじいがいてもおかしくはないのに、中々見つからない。

 暑さと焦りから吹き出る滝の様な汗で、もう服はびしょびしょだ。額から伝っている汗が目に染みる。

 僕も屋台に並ぶ人の様にかき氷を食べたい所だが、そんな事をしている暇はない。

(僕の予想は外れていたのか……?)

 その時だった。僕のいる大通りの反対側に、ミニスカートの女子高生の後を追うマッドじいを見つけた。信号が赤に変わろうと点滅している。ここで渡らなければ、この人込みではもうマッドじいを見つける事が出来なくなってしまうかもしれない。

 息絶え絶えな僕は、またとないチャンスを逃さない為に、マッドじい目がけて道路へ飛び出していった。

 もう少しでマッドじい……という所で、僕の身体は宙に舞った。

「!?」

 間髪を容れず、固い地面にとてつもない力で叩きつけられた。その衝撃で息が止まる。突然の事で判断が遅れたが、どうやら車に撥ねられたらしい。

 全身を襲った痛みで身動きが取れないまま、僕を撥ねた車は、非情にも僕の上を走り抜けていった。

「ん? 今、何かぶつかった?」

「気の所為じゃねぇの? 何にも見当たらないよ」

 車からそんな声が聞こえた気がする。

 僕の身体から、何かが抜け出し、力がどんどん抜けていく感じがした。

 あのクソジジイめ……! このままじゃ、COSMOちゃんの握手会に行けないじゃないか。

 先程までの暑さが嘘の様で、寒くて堪らない。透明人間のままだから、誰にも気付かれず、助けてもらえないのか……。

 僕はこのまま死んでいくんだ……。家族との思い出が、次々と頭の中を駆け巡る。これが走馬灯という奴か……。

「あの時、開いていた窓から入らなければ……こんな事にはならなかった、のに……」

 薄れゆく意識の中、僕がうわ言の様に呟けば、遠くからマッドじいの笑い声が聞こえた気がした。

 

 ――クケケケケケ!

 床に転がる小瓶に書かれた記号は、実はロシア語で、「透明になる薬」と書かれていたのであった。(終)