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僕が高校を受けたときの話だ。中学校の中でも馬鹿にされまくっていた私立高校が近所にあった。従兄に車が大好きなお兄さんがいて、あるメーカーのことが特に好きで、高校を卒業するときに自分の高校には求人がなかったのに拝み倒して入社試験を受けさせてもらって見事採用されたという人だ。重要なのはそのお兄さん自身高卒だということ。僕自身が高校受験だったから話題はどうしてもそれになる。いろんな高校について、大先輩として意見をくれたんだが、僕の家の近所にあったその高校の話になったら、お兄さんは何も言わずにこめかみを指先で2回叩いてその後掌を広げた。
このころ教育産業の親玉である大学という組織は、数年後からはもう生徒が減り始めて冬の時代が到来するということは先読みしていた。だから、有名な大学や、全国的に有名というわけではなくても地元では平均以上の高校生が入る大学は「青田買い」をシステム化することに躍起になっていた。要するに「親」のいないフリーの高校を、片っ端から附属高校認定しはじめたんだ。
僕らの時代というのは、推薦で入ったやつというのは優秀な人間だけど、内部進学は高校か、下手したら中学入試時点で燃え尽きてしまって、付属だから自動的に高校から上がってきたという扱いで「何も知らないやつ」というのが定番だった。そこそこの大学の付属高校レベルで勉強できていて、大学に入る直前にもきちんと優秀だったやつらは、私立大学にしか入れないことをみっともないことだと考えていた。にもかかわらず私立大学が旗を振ったら私立高校が馳せ参じたのは、大学にとっては学生の確保、高校にとっては努力しなくても行ける進学先の確保というウィンウィンの関係が発生したからだ。馬鹿でもいい、頭数になってくれという教育産業の悲鳴は、やっぱりこの時期から発生してる。
色々言ってるけど、僕らが馬鹿にしまくってたその高校が、大学の傘下に入った。それがよりによって、僕が入った大学だ。この大学は、元々そういう傾向はあったそうだが、政府とか役所とかには「楯突くことこそ正義」みたいなところがある。なんとなく僕の父が閑職に飛ばされた理由になった中2臭さも感じるけど。
それで、拡幅工事中の道路の沿道にあるこの高校を傘下に収めたら途端にゴネ出した。つまりは「どいてやらないことはないが、いくら払う?」とやり出したわけだ。ネリーの森を潰して作る予定の道路に反対している人たちもこの大学の仲良しさんたちだったからこの時期は僕の住むこの市が全体的にお祭り状態だったころだ。
なんで僕がこの大学に入りたくなかったかと言うと、これが理由だ。なんか言うことが手前勝手なんだ。そういう大学だということ。こんなこと、うちの親は絶対知らないだろうと思う。実はそういう言い分を真っ向から批判している数少ないアカデミズムの中にいる言論人が、僕が行きたかった第1第2希望のあの学部を作った先生なんだ。だからこそ行きたかったっていうのが僕の中にはある。
そういう考え方には、実は他人に対する甘えが裏にベットリと付着しているというのは既に多くの言論人によって指摘されていた。当たり前だ。自分たちがどんなにわがまま勝手を言っても、相手は最終的には自分たちを受け入れてくれる、なんてのは心理学的に言っても母子一体感の中における子供の感覚だと思う。日本の研究家も海外の現代日本政治思想研究家も指摘をしているところだった。いまは「中2病」というありがたい言葉があることからもわかるがこれは子供が大人になる過程で通り過ぎる熱病みたいなもので、ご多分に漏れず僕もやったよ。具体的な行動はしなかったけどさ。
でもこれって、子供が子供である限り子供の勝利はあり得ないんだよな。相手は自分とは違う思考を持つ自分以外の人格、それだけのことを受け入れたらなんてことない話なんだ。だけど本質的に子供の座ってのは居心地がいいから、なかなかその一歩が踏み出せない。日本文化というのは子供を「自分とは違う、自分と対等の人間」に育てるのではなくいつまでも母子一体的な関係を「美しい親子愛」と解釈する傾向もある。これは僕が読書遍歴の中で心理学の本を読みまくって知ったこと。子供をやめる気がない人間は、自分を受け入れない腐った世の中に生きなければならないという絶望を背負って生きていくことになる。ホント、罪深い考え方だよ。いつかは親という蟻を踏み殺してそのさき生きていくことを考えている僕はなんて健全なんだろうと自分で思う。
年代的には筒香さんなんかがまさに学生たちがそういう考え方に基づく運動に熱を上げていたころに学生をやっていた人なんだよな。だから筒香さんはこういう運動の出てくる作品を結構書いている。だけどその描き方は極めて幼稚で短絡的な人間たちによるバカバカしい行動としてギャグのネタにしていることの方が圧倒的に多い。本人は、周囲がそういう政治思想にかぶれているころに自分は精神分析にかぶれており、自分だけが特権的な地位にあるような気になっていて、あのころの自分は間違いなく嫌なやつだっただろうがそのため人生間違うようなああいう運動には参加しなくて済んだ、みたいなことを書いている。
ふぅ。じゃ、筒香さん世代から僕世代に至るまで、様々な反社会的な活動を散発的に行いながら、日本のアカデミズムの世界はこの思想に関してなんの反省もできていないということ?大学進学率が高い割に大学の質が悪いことは海外からしばしば指摘されることではあるけど、その理由がなんかわかる気がする。
だけど、だ。他人が困って、さらに本質的には「どうでもいいこと」を巡っててんてこ舞いしているという姿は、自分に危害が加わらない限りにおいて極めて面白い事態だ。そうでなければなんで筒香さんが繰り返しネタにするものか。それで大問題なのは、僕は利害関係者でもあるんだよ、この件にあっては。バトルが長引いて、着工が遅れれば遅れるほど、ネリーの森はその分命を長らえる。最初は反自衛隊を掲げる一部の市民団体と、開発をしたい市、これだけだったけど、全く別方面の案件ながら反行政ということでこの県じゃ絶大な権力と権威を誇る大学が参戦して、そして市民団体と連合を組んだ。こりゃあ、泥沼化の様相だな。
市からすれば、あっちの道路を拡幅して、こっちでは森の中に道路を通すのが目的だ。反自衛隊派は道路の工事に自衛隊を使うことをやめさせるのが一応のゴールなんだろうが、間違いなくその後もなんか言い出すと思う。だって本来「自分たちを動かす立場のリーダーがいる」ことそれ自体が許せない人たちだから。けど、ある意味ではこの人たちは純粋ではある。だって、運動を金儲けの手段にすることは考えてない。問題は大学だよ。附属高校の土地の何分の一かを提供することでどれだけのカネを行政から引き出すか。なんだ大学が一番汚いんじゃんか。いずれにせよ、みんなが納得する結論が出るまではしばらくかかりそうだ。
僕は相変わらず、ヒマだったら森に分け入っていた。ネリーもそれを望んでいるように見えたから。
奥へ分け入れば、いつもと変わらない別天地。静かですがすがしくて、不思議な羽虫がのんびりと宙を漂う現実離れした景色。ネリーはここでは少し元気が良くなり、僕からかなり離れて高いところを飛び回ったりもする。
「ネリー、この辺って工事計画もあるから、あんまり羽を伸ばしすぎると誰かに見つかるかも知れないよ。ほどほどにしとけよー!」
そう声をかけても、どこまでわかっているのかネリーは手を振るだけで旋回の半径を狭めようとはしない。それでもなんとなく大丈夫だと思えるのが、この森のいいところだ。外の世界とは遮断されているような感覚だ。実際、ディーゼルエンジンが吐き出す排気ガスの臭いも、大型ダンプが起こす地響きみたいな揺れも、ここにいれば感じない。
そういうものとは無縁の場所として僕はここに来ていたが、不愉快なものは臭いとか揺れとかではなく「不安」という形を取って、僕の心の中経由でこの森の中に侵入してきた。まだごく些細なものではあったけど、羽虫たちはそれを感じ取ってミュージカルみたいに一斉に不安のダンスに切り替えたようにも僕には思えた。

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