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というようなわけで、僕は本分である受験勉強にはさほど力を入れてなくて、関係ない方面にばかり知識と関心の幅を伸ばしていたわけだけど、この田舎にちょっとした騒動が持ち上がってきたのはこのころだ。
早く言うと、市は昔からある道路の拡幅を諦めたってことだ。市の西部にアクセスするための道路を、いつだったか僕とネリーが行軍したほぼあのとおりのルートで、森を伐採して道を作ってしまおうと、そういう計画が持ち上がった。
道路ができますよ、だけだったらごく少数の自然保護団体が反対する程度の問題で終わったと思う。問題は、市の公式発表では、その道路の建設費を圧縮するため、自衛隊の力を借りることになっていたことだ。実はこの市は、複数の自衛隊駐屯地があったりして、自衛隊との関係が深い。で、自衛隊を使って安く上げることの見返りが、有事の際に優先的に自衛隊専用道路になるということで、それが許せない人にとっては許せないらしい。
僕は正直「それの何がいけないの?」と思った。日本国内で自衛隊が展開しなければいけないような事態になっているんだとしたら、それはもう「これは民間の道路だから自衛隊は使わないで下さい」なんて悠長なことを言っている場合じゃないだろう。言ってみれば自衛隊優先契約は、国の防衛組織である自衛隊を、ひとつのさほど大きくもない地方自治体の工事に使うことに対して言い訳をしているだけの話だと思う。広大な領土を治めたローマ帝国だって、軍隊は戦闘組織であると同時に土木工事・建設工事のスペシャリスト集団だった。日本でも「黒鍬者」と呼ばれる土木工事部隊が軍の中にはあった。いつの時代どこの場所でも軍隊は土木工事と切っても切れない関係にあると言っていいと思う。
とは言え、工事推進の市と反対の市民団体が泥沼の抗争をしている間は、工事は進むことはないということであって、僕は正直ほっとした。だってどう考えたってこの工事はネリーの森を大々的に破壊しないと完成することはない。公表されているルートは僕らが行軍したルートとほぼ同じルートで西の方に出るルートと、そのルートから途中で分かれて南隣の、つまり塾とかがあるあの市中心部へのショートカット路線があった。地図で見ると、ものの見事にネリーの森を3つに分けることになる。僕は正直、市と市民団体の抗争がなるべく長引いて欲しいと思わずにはいられなかった。
だから僕はなるべく時間を見つけて森に出ることにした。時間が限られているかも知れないと思うと、この森がなんだかすごく貴重なものに思えてきたから。真夏の昼間に行ったら適度に日差しが遮られて心地いい。薄ら寒い時期に行っても、風が適度に木々によって遮られていて、どうしようもなく寒いなんていうこともない。夕暮れ時に行ったら、季節によっては蛍が飛んでいたりもする。ほぼいつ行っても心からくつろげる場所だ。
自然というのは、人間にとってくつろげる場所であると同時に、居心地の悪い場所でもあると思う。森だって、心落ち着く場所であると同時に、有害だったり気持ち悪かったりする生き物が棲息する場所でもあるはずだ。「僕は街の中よりも森にいたい。そうだ。できることなら絶対そうする」日本語で言うとこういう歌い出しの名曲があるが、これは森というものを現実とは違う理想的なものと考えているから成り立つ歌詞だろう。人里離れた森の中にいきなり投げ出されるような事態になったら「助けてくれ」と言い出す人の方がはるかに多いはずだ。
だけどこのネリーの森は、そういう意味ではなんか現実離れした森だと、僕はなんとなく感じていた。妙に空気が澄んでいるし、不愉快な騒音や振動とも奥の方に行けば無縁でいられる。中で気持ち悪い生き物と出くわしたこともないし、蛍がいつでもたくさん漂っていて幻想的な景色だ。
この地域は、昔から蛍の名所であったらしい。そのことを母に話したところ、やっぱり昔から割と最近までそうだったと。母が勤務する会社の事務長、実質的には経営者のひとりでもあるんだが、その人が戦後の貧しかった時期に蛍を売って生活の足しにしたらしい。誰が買うかというとキャバレーみたいなところの経営者だそうだ。ああいうところって、店内を暗くするだろ?ああいう風に暗くして女性との会話とかそれ以上のことを楽しむ店には夏になったら店内に蛍を放ちムードを演出したというのだ。古くは芸者舞子を呼んでのお茶屋遊びの時代からずっと引き続いていて、割と最近でもキャバレーなんかには伝わっててやっていたんだそうだ。水に入って、川面を漂う蛍をつかまえたら、口の中に放り込む。蛍に必要な温度と湿度を保つには虫かごなんかより適しているらしい。
「じゃあ、あの向こうの森の方にいる蛍も、捕まえたら口の中に入れればしばらく生かしておけるってこと?」
僕はなんとなくそうたずねてみた。
「何言うてるのあんた、蛍って水辺でしか生きられへんのやで?あんなカラッカラの山の中に蛍いてるはずないやないの」
「え?じゃあ、あそこには蛍いないの?」
「あの中に湧き水みたいなものでもあるか?そんなもんがあって蛍が自然に生きてるぐらいやったら、反対運動もっと激しなると思うえ?ないとは思うけど、あんたがそんな自然の水辺見つけたんやったら、あんた今すぐ反対運動に加わらなあかんわ」
僕の直感が「これ以上話したらまずい」と告げた。これはネリーの森についての重大な問題になる。僕がこれ以上「あそこには蛍がいる」を押し通したら、何か大切な、そして隠しておきたいことを明らかにすることになりかねない。
「そうか、じゃあ蛍かと思ったあれはなんだったんだろう?光る虫って他にいるかな?」
「そら、世界中探したら他にもいるんやろうけど、このあたりにはいぃひんと思う」
「ふ~ん、じゃあ、何を見たのかな?」
「何かの光が跳ね返ったのん見たんと違うか?」
「そうかもね。めんどくさい反対運動とか関わりたくないしこの話はもうしないよ」
僕はそう言って翌朝の新聞配達を理由に寝ることにしたけど、頭の中は混乱していた。蛍の住む環境じゃあり得ない、だとしたら、あの森に漂っている光る生き物はなんなんだろう。確信はないけど、それはネリーの本当について何らか関わりがある気がする。僕はこれ以上、このことについて知ろうとしていいんだろうか。
長い間従ってきた僕の習慣をここでも持ちだした。僕はこの疑問を「わかるときが来たらみんなわかる」と、無意識の下に押し込めてしまった。

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