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 一応、言い訳させて欲しい。
 このころ僕は、怠けまくっていたわけじゃないんだ。さすがに日々の教材代とか模擬試験の受験料とか、高校に行っていてバイト禁止ってわけでもないのに全部親持ちは申し訳なかったしそれで親が僕に対してマウントポジション取った気になって勝ち誇られるのも嫌だった。それに、高校を卒業した以上、浪人という事情は考慮されずに奨学金の返還義務が課されることでもあった。
 だから僕は、このころ人生初のアルバイトを経験していた。時間が短くて、勉強時間が取れて、こんな田舎にも仕事があって、さらに給料がそこそこいい仕事。それが新聞配達だった。フルタイム働いている人は2時に販売店に集まってまずは広告の折り込み作業をやる。そして複数の会社の新聞を配ってる(だから他社の店より給料が良かった)この販売店の特徴だけど、各配達員が回るルート順に新聞を重ねる。各家庭にどの新聞を配るか覚えるまでは新聞名と購読者名が書かれた帳面を持って配達するんだけど、さらに間違いがないように正規従業員さんが順番に重ねておいてくれるわけだ。
 僕ら浪人組にはこのころ初バイトを経験しているやつが結構いて、高い給料に惹かれて建設現場に行って1日で悲鳴を上げているような連中もいた。それを考えると、僕はまぁ穏当に初バイトを経験できたんではないか。結局のところ、こういう仕事の少ない田舎では、体力的にキツいとか、労働時間が長いとか、思うほど稼げないとか、何か大きな妥協をしなければバイトは見つからない。僕の場合その妥協点は「朝が早い」というところだったということだ。落としどころとしては自分でもいいところを選んだと思う。早起きになったから生活が規則正しくなったかと言うとそんなことはなくて、バイトから帰って2度寝は当たり前だったけど。
 高卒後すぐにこのバイトのためだけに僕は原付免許を取った。初バイクがスクーターではなく配達用のマニュアルギアだったというのは、今から考えたら良かったと思ってる。車でもそうだが、機械にすべてお任せできる「ユーザーフレンドリー」な道具というのは、その機械がいざトラブルの時にユーザーはお手上げなのだ。何がどう動くから自分の望んでいる動きをするのかというのを把握して道具を使った方が、トラブルに強いユーザーになれるし応用範囲も広い。自分が動かしている機械がどうしてそう動くかぐらいはわかって使いたい、という僕の基本姿勢はここに源流がある気がする。
 配達用のバイクは、店長がまるっきり渡してくれた。だから僕は午前3時に「出勤」するのにも6時前に帰るにも歩くとか自転車とか必要なかったし、昼間の時間にそれを使うことも自由だった。ガソリンは販売店で入れれば良かったし、調子が悪ければ店長が整備してくれた。販売店はJRの駅前だったから、駐輪場を使う必要はなかった。考えたら、給料以外のところで随分得をしていたな。
 ある日、僕はそんな朝のひとときを嬉しい気分で帰っていた。その前の日、新聞のテレビ欄を見ていたら知っている名前があったのだ。その人の名前は米乃沢明喬。筒香さんが連載エッセイで「習いごとを始めた人というのは、上手くもないくせに他人に披露したがって披露される方はえらく迷惑を被るものだ」という話への導入にこの人の「軒付け」という持ちネタを出していた。だから僕は「そういう噺家さんがいて、そういう落語があるんだな」ぐらいの認識を持ってた。新聞に載っていたのはその明喬さんの特集落語番組のタイトルと、その日の出し物「軒付け」だった。それを僕は予約録画して、帰ったら見るという楽しみがこの日にはあったわけだ。
 僕は、落語というものを聴こうと思って聴いたのは人生でこれが初めてだと言ってもいい。そしてそれは僕には価値観の大転回をもたらすものだった。
 明喬師匠は、洗練されていて、上品で、知的で、それでいてきちんと身近な言葉で、昔のこのあたりに舞台が設定されたスラップスティックを、ひとりひとりの息づかいまで感じ取れそうなリアルさで語った。だから僕は大笑いしてその落語を聴いたわけだが、面白いと思ったら行くところまで行くのが僕だというのはもう説明不要だろう。僕にとって何度目かの大ショックだ。今まで気にしたこともなかったが、深夜には落語の番組が結構あった。その中でもこの明喬師匠とその一番弟子である紫燕師匠は、それぞれ毎月、隔月で看板番組を持っている落語界でのスーパースターだった。
 お笑いに強い関心を寄せる文化であることは知っていた。だけど、ゴールデンタイムの番組には序の口力士を指して平気で「関取」と呼んでしまうレベルで常識がなく、しゃべりは下品でうるさいだけで内容がない「芸人」で埋め尽くされていた。だから僕はこの地のお笑い文化を心底軽蔑していたけど、深夜とは言えこういうちゃんとした芸人さんには単独レギュラーを持ってもいいぐらいの視聴率を与える程度には、本当のお笑いにも心を配っているんだな。
 両師匠とも、とんでもなく頭が良かった。師匠にあたる明喬師匠は無駄や無理のないさらりとした芸風、弟子である紫燕師匠はオーバーアクションで海外アニメみたいな正反対の芸風だが、徹底して頭を使っているという意味では共通していた。
 凝り性の飽き性で、何かを「美味い」と思ったら異常な頻度でそればかり食べ続けるとか、何も考えず眠っているのが一番好きだというところとか、自分との共通点を多く感じるのは紫燕師匠の方だったが、著作が面白いのは圧倒的に明喬師匠だった。だいたいにおいて落語の舞台とは江戸後期から明治の中期ぐらいまでだが、師匠の著作の中にはそれぞれの時代の中で、僕らと同じように下らないことを言い合って笑ったり、性欲をもてあまして悶々としたり、知り合いに下らない悪戯を仕掛けて笑い物にしたり、そしてそれに失敗して自分の方が恥を掻いたり、それぞれの時代でそれぞれに存在した理不尽に屈してみたり対抗心を燃やしてみたり、そういう僕らと何ら変わらない人間が数多く生きていた。僕は人生で初めて、歴史を面白いと感じた。
 というようなわけで、僕は浪人生であるという身分すら忘れて、落語会通いにいそしむことになる。明喬師匠のお弟子さんの中に、僕の中学の(もちろん悪い思い出が残っている方の)先輩がいた。現住所は近くではないが、縁が深いということでごく近くで隔月の落語会を持っていた。僕の落語会通いのとっかかりはここからだ。
 観光地の門前商店街の中にある、お土産屋さんの3階。それがこの落語会の場所。広さは、12畳間がふたつ取れるかどうか微妙、という程度だった。そこに高座を設けるから客がいるスペースは正味16畳分あるかないかだと思う。そこに敷けるだけ座布団を敷き詰めて、1枚がひとり分のスペースだ。
 東京には落語の常打ち小屋があるが、このあたりにはなかった。だけど、こういう草の根レベルで伝統芸能を支えてるって、なかなか素敵なことだ、と僕は思った。集まっている人たちも、僕よりはるかに深みにはまってしまって先行きが心配な大学生から、人前で見せるに値する芸について何十年と目を肥やしてきましたというようなおじさんおばさんまで様々だったが、少なくとも僕の言葉をスカしてるとか何とか因縁つけてくるような柄の悪い人はひとりもいなかった。師匠をはじめとする本当の芸人について語り合うのに方言の違いなんて意味を持つものでは全くなかった。
 だいたいが、明喬師匠ご本人からして、東京嫌いではないのだ。寄席文化研究家が本来の志望で、若かりし日に東京に出て当時あった学校に通って、そのころ第一人者だった研究家に弟子入りしている。元は姫路に本拠のある家の生まれだったから自身の言葉は東京言葉ではなく、研究家である師の勧めもあり東京ではなくこっちの噺家、当時ほとんど火が消えかけていた落語という大衆芸能をかろうじて受け継いでいたうちのひとりと交流が深くなり、結局弟子入りしている。数年とは言え東京で暮らし、東京の街に当時はたくさんあった寄席という場所に通い詰めた経験はこの師匠をして東京言葉か否かというのは芸の質に全く関係ないという公平な視点をもたらしたんだと思う。師匠には東京の重鎮にも交流が深い人がたくさんいたし、数は少ないが江戸っ子が出てくるような噺では、無理のないきれいで歯切れのいい江戸言葉を披露していた。
 こうして僕は、朝の新聞配達に障らない範囲であればどこにでも出かけていって、落語を聴きまくった。と同時に、明喬師匠の本をできる限り図書館などで探し当てて読みまくった。師匠は「やっぱり」と言うべきだろうが、落語界随一の学究肌であって、なぜ芸名ではなく本名名義で出している学術論文がないのか不思議に思えるレベルですらあった。
 それだけに各界の知識人とも交流が深くて、僕はいままでは名前だけで拒絶していたような評論家や研究家の本にも手を伸ばすようになった。それで知ったのは、日本の歴史教育がいかに歪められているかということだ。過去は暗黒、未来は希望。こういう単純な歴史観。これでは、何もわざわざ過去を学ぼうという気は、起きなくて当然だと思う。別に言い訳するわけではないけれど。
 だから僕はこのころから落語の舞台になったあたりを中心に歴史本も読み始めたわけだけど、なぜこのときに社会系の科目を日本史か世界史に乗り換えることを検討しなかったのだろうか。そうすれば、受験できる大学の幅も広がったのに。