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僕の住む街が、様変わりをしている話はこれまでもポロポロしているけど、道路がズバッと通ったところまでは話したんだっけ。じゃあ、次は鉄道にしよう。
朝日さん事件(この鄙びた田舎町にとっては、事件と言っていいインパクトがあったと僕は思う)以来、鉄道が本気になり始めた。特に本気になったのはJRだろう。2両編成各駅コトコト電車を走らせていたけど、それが全部最低4両編成になった。これだけでも大進歩だと僕は思うんだけどな。
僕が高校生だった間は、まだ2両編成だった。朝の時間帯なんか、毎日超満員だった。それが増やされて最低4両ということは、時間帯によってはそれ以上のものもある。だからこのJR路線も4両編成の上は6両だった。全駅、6両編成までの対応にした。
基本的に普通電車に使われるのは、鉄道ファンの間でもチープであることで有名で「走ルンです」とすら揶揄される車両だったけど、快速電車に使われるのは日本有数の高規格路線である大幹線を引退した車両が第2の人生としてやって来た。最高速度は120キロ出るぞ!ただ、この路線では110キロ以上必要ないけどな。
でも、ほとんどの駅を1線スルー化、さらに部分的には複線化もしたのはいよいよJRも本気になった証だと思う。1線スルー化というのは話し始めたら長くなるんだが、とにかく通過電車が高速で通過できるための仕組みだと、その程度に考えて欲しい。
これまでは、南の終着駅であるターミナルから本当のローカル線に乗り入れていた便もあって、そのせいで見慣れない設備を備えた列車に乗ることもあったんだが、この一連の改良によってこの路線は車両運用的には完全に独立して、他の路線からの直通便というのはなくなった。そのせいか車両のやりくりにはちょっと苦しさもあって「走ルンです」が快速をやらされてるようなこともあるが、まぁ全体的にはかなり良くなったと言っていいだろう。快速が緩急接続を行うのは、僕が使っている最寄り駅だけだ。だから残念ながら、ターミナル駅から1本逃しても次の快速に乗れば追い越せる、という事態にはならなかった。だけど、10分以上遅れてもほとんど快速で取り返せるとなれば大進歩だよな。
JRと近い方に駅がある私鉄は、前にも言ったけど支線なのでできることは限られていた。複線だけど追い抜き施設もないので支線内では速達便も設定できない。だからとにかく支線内は増発に次ぐ増発、そして本線で接続できる列車をとにかく増やした。この私鉄は大昔に建設されたときからの制約で、県庁所在地に出るには若干迂回する必要がある。だから僕たちが越してきた当時は、私鉄の方が便数はたくさんあるけど時間がかかるという理由で、30分に1本のコトコト電車の方を使ったわけだが、どこに行くかによって使い分けることのできるライバル関係がようやくできたと言っていい。
駅前もそれぞれにきれいに、そして便利になった。どっちの駅前にも停まるバスも多かったけど、ふたつのターミナルはそれぞれにいろんな方面への路線を新設し、バスも大幅に増便された。バス路線が増えたということは、道路が増えたということでもある。僕にとってもまさかまさかの展開だったが、あのスキージャンプ台のように見えていた、途中で途切れた道路。あれを延長して、いつだったかネリーと一緒に走った道路とつなげた。比較的完結した大通りがひとつできたわけで、そこを走るバスも新設された。線路をオーバーパスする大規模な陸橋工事を、やるはずないと思ったら本当にやったわけだ。あまり好ましくないタイプの非日常につながっているよう、と感じていたのは話したと思うが、それが日常につながってしまった。便利が良くなったことは間違いないんだろうが、なんだか僕には素直に喜べる事態ではなかった。
こうなると、市が本気で考え出すのは、東西接続だ。何度も言ってるが西の方は私鉄の線路が直線的に走っている。このころ、こっちの私鉄に関してはあんまり動きがなかった。この路線の市内で一番大きな駅は、実はそれよりさらに西にある町への交通の要衝だ。この「町」つまり市じゃないところは、中に鉄道が通っていない。だけど、複数の鉄道路線が周囲を取り囲んでいるまさにその真ん中を突いたようなロケーションで、決して不便ではない。安い土地も広々とあるため企業の工場なんかがたくさん本拠を置いている。だから「町」としてはずいぶん財政状態が良くて、道路の整備状態もかなりいいし、鉄道がないことなんか屁とも思ってない。周囲の市からたびたび合併のラブコールを受けてたんだが、いわばこの町は「高嶺の花」だ。お金はあって、合併したらそれがよそへ流れるんだから、顔がいいだけの男(市)はお断りよ、というところだ。
だからこの町を「合併」で取り込むことはできないにしても、この隠れた「昼間人口大都会」へアクセスする道を確保することは、周囲の市にとって重大問題とも言えた。東西に分断されてしまってるに等しい僕の住むこの市は、すぐ近くにあるこの労働大市場をみすみす逃してきたと言っていい。
というようなわけで、東西の道路を何とかしようという動きが始まった。以前いつだったか、ネリーの森を1日中行軍した果てに行き着いたところまで続く道路が、いわば「バス天国」でもあるこの駅に行くには一番都合がいい。だから最初はこの道路を何とかしようという苦心惨憺が見て取れた。決して幅が広いとは言えないこの道路をなんとか拡幅しようとしているんだろうが、それができたのは一部にとどまった。商店街からもまっすぐに続くこの道路は、日本に車なんかなかったころからの古い街道でもある。ということは言い換えれば沿道には古い店なんかも数多くて、拡幅するからどいて下さいでは話が通らないところも多いわけだ。
せめて荒れまくったアスファルトだけでも何とかしようということなのだろうか、このころこの道路にはアスファルトを積んだダンプトラックとかロードローラーを積んだ車運車とかが頻繁に通った。だけど拡幅もできてないのにそういう大型車を入れたり、場合によっては片側交互通行にすることは、この狭い道路の行き来をさらに不便にした。これはもしかしたら「そこまでしても改良しなきゃいけないんですよ」をアピールするためだったかも知れないが、もっと勘ぐれば「道路改良工事費」を計上し続けるという実績を作らないとお金を調達することが難しいという面もあったのかもな。
だから、僕の住んでいる住宅街とか、家からネリーの森に行くまでにある細い枝道を使って渋滞を避ける車がこのころすごく目立った。自家用車ならまだいいとして(いや、決して良くないが)大重量のある工事用車両がそれをやるのは本当に勘弁して欲しかった。アスファルトは痛むし排気ガスはすごい。母もよく近所の奥様方と「外壁や門柱が煤でずず黒くなる」ことを嘆き合っていた。
トラックドライバーみたいな仕事は、とにかく時間以内に積み荷を届けないと後の作業が全部滞ることになるし、仕事が時間外に及ぶことも多いから体にも車にもいろいろと無理な負担をかけている。駅の方に行くバス通りは割と広くて嫌なことは少なかったが、それでも朝の渋滞時間には車列をショートカットするために右折レーンに入り、交差点上で無理矢理直進レーンに割り込むようなトラックを見るのはしょっちゅうだった。整備の手を抜いたダンプトラックが満載の重さに耐えられずに車輪がひとつ脱落して傾き、重機と替えの車輪が届くまで片側交互通行なんていう人死にが出ていても不思議ではないようなこともあった。
ネリーの森は、今のところそういう車たちが入ってくるところとは不法投棄天国とそこへ至るごく短い道路という緩衝地帯を挟んでいるとは言え、入り口近くではネリーと一緒に森でくつろいでいても騒音は聞こえてくるしどこか空気も煙臭かった。あのディーゼルエンジンの音って想像以上に響くな。重量があるから音じゃなくて地響きっていう意味でもかなり遠くまで伝わる。
このころちょっと思ったことなんだが、そういうマナーの悪い運転とか生活道路を使ったショートカットとかをしている大型車ドライバーが、自分たちのそういう行為によって周囲を行く通行者や周囲の建物の持ち主が不愉快な思いをしていることを知らないはずはないと思う。そういう人の中には「道路という戦場では大きさこそが正義じゃ!」と思ってる人もいたんだろうけど、悪いことと知りつつやっていた人ももちろんいると思う。
一般的には「悪いこと」を、主観的には「いいこと」だと思っていてそれをやっている人と、悪いことを「悪いこと」だと認識していて、それでもなお自分の手を汚す覚悟ができていてやっている人、いざとなったらどっちが強いだろう?僕は、悪いことだとわかってやる方がはるかに強いんじゃないかと思う。
というのも、悪いことを自分的には「いいこと」だと思っている人は、それが世間的には「悪いこと」であり「いいこと」として通用するのは自分の周りのごく狭い世界だけでした、というとき、その事実を知って心が折れてしまうと思うのだ。特に中学生レベルぐらいの「不良少年」だったら、仲間内でしか通用しない自分たちの「正義」は周囲の大人への「甘え」がないと成立していない場合が多い。彼らなりに精一杯虚勢を張って反逆してきたつもりなのに、全部大人の手のひらの上で転がされていただけだという事実を知ったとき、不良少年は正気を保つことができるだろうか?
僕が後に夢中になることになる詐欺漫画では、主人公は明らかに自分がやっていることが正義でないことはわかってた。こういう人に「それは悪事だからやめなさい」と言っても意味がない。そんなことは承知でやってるんだから。
僕は基本的に、善良でおとなしい人間だ。進んで悪事を働きたくはない。だけど、自分の親や、その親を騙した連中、そして僕の中学時代に素敵な思い出をプレゼントしてくれた連中に対してまで善良を貫こうとは思わない。だから、僕に核爆弾投下命令の発令権が1回与えられるなら、そういう連中が全部集まる機会を周到に作って、そこに落とす。関係ない人やそれ自体は非常に美しいこの街の文化遺産、自然も犠牲になるだろうが、僕の感覚ではそれらは「犠牲にしていいもの」だ。犠牲になりたくないという人がいたら、僕に核爆弾使用権が与えられて使うまでに僕を狩りに来たらいい。ホッブズが言う「万人の万人に対する闘争」とはそういうことだろう?その闘争を止めるためにみんなの合意でリーダーというものが決められるのが社会だそうだが、僕はそのリーダーとやらの存在も能力もあまり信用してない。なぜだろうか、僕はこのころからこんな風に「善と悪」みたいな抽象的なことを考えるようになっていた。
そういうときに現実へと引き戻してくれるのはやっぱり心優しいネリーだった。目の前で手を振ったり、肩とか腕とかを叩いたり引っ張ったりして心配そうに僕の方をじっと見ている。
「ああ、ごめんごめん。人間ヒマだと、無駄なことも考えるのかね。ちょっと、とりとめのないことを考えてた」
正気を取り戻した僕に対して、ネリーは少し安心したような表情を見せる。まぁ、相変わらず白くて柔らかい塊で作ったいい加減な人型であることは変わりないネリーだから、そこに表情を見るなんていうことは僕の勝手な思い込みなのだろうけど。
「相変わらず騒音も排気ガスもすごいな。また奥に行こうか」
そう言うとネリーは嬉しそうに2回頷く。
「じゃあ、行こう!」
そう言って少し奥に入ると、まるで別世界のように静かで空気のきれいな場所がそこにあった。他に森というのを知ってるわけではなかったから、僕は森というのはそういうものだと思っていた。
ネリーがいてこの森がある間は、核爆弾投下はナシだな。

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