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いよいよ、受験シーズンがやって来た。と言っても、山本くんみたいな推薦入試組はもうひととおり試験を終えていたけどね。
僕が目指してた大学の2つの学部なんかが結局それの先陣を切ったってことになってしまっているが、アドミッション・オフィス入試、略してAO入試と言われるあれだ。これが最近やたらと盛んじゃないか?僕が目指してた大学によると「画一的な勉強をしてきた生徒だけではなく、独創的な活動に励んだ学生も入学させることで、多様な学生を集めて学内のダイバーシティを実現する」というようなことだった。このダイバーシティという言葉は、学生の頭数確保にあたって大学人にとって実に都合のいい言葉だ。本来「多様性」とかそんな意味であって、なるほどいろんな出自のいろんな人と出会うことは一見いいことみたいに思えるが、それって要するに「学力の確かな普通の学生より、学力の不確かな変な学生を採る」ってことじゃないか。
AO入試は、別名「自己推薦入試」とも言われる。僕が目指していた2つの学部を作った先生は実は日本でもかなり有名な人で、心から「金太郎飴じゃない学生が欲しい」と思ってこの学部を作ったんだと思う。だから入試も変わった入試にしたし、推薦枠やAO枠を大きく取ったし、留学生や帰国子女の受け入れも積極的に行った。だけど結局、変な連中が変であるというそれだけを売りに入学してくる結果になってしまって、早々に幻滅したんではないかと僕は思ってる。と言うのも、苦労して作ったこの2学部をあっさりほっぽり出して、この先生は無名大学の学長に転職してしまったからだ。
当時からAO入試の合格基準が定かでないことには危惧の声もあったんだが、若者が減って大学という産業の市場が小さくなり、とにかく顧客獲得したい大学はこのAO入試を言い訳にして変な連中を採ってるよね。誰が言ったがAho OK入試の略がAO入試だそうだが、そこまで言われるまでになってしまった。この2学部を作った先生はいまどんな思いだろうか。
こういう大学の劣化は、目立たない形ではあるが大学入試競争が空前絶後の熾烈さを誇った僕らの時期に間違いなく始まってる。帰国子女枠だ女子学生枠だと言って「ダイバーシティ」を錦の御旗に「変な学生の皆様お越し下さい」と「客引き」するのは私学では名門でも既に始まっていたし、割と残念な大学では「一芸入試」と銘打って自分の特技をアピールして面白かったら合格ということを始めてもいた。この制度でその大学に入った人材からは、後にちょっとだけ人気が出たダジャレ芸人を「輩出」している。ダジャレで大学に合格した世界でも数少ない人物だろう。
僕らは男子であり小中高と進学してきた普通の高校生で課外活動も何もやっていないから、要するにどの大学を受けるにも正面突破以外の戦法はなかった。僕のクラスメイトには国公立の受験者はいなかった。このころの国公立に受かるには5教科が満遍なくできる必要があったがそんな生徒はいなかったし、高校がもくろんでいたゴールもゴールドクラスの生徒は国公立、シルバークラスの生徒は私大トップというレベルだった。サックスの彼がもう少し精神的に図太かったら、芸術大学受験生としてクラス唯一の国公立受験生になったかも知れない。それを思うと少し残念だ。
入試の時期には、長期の休みがあった。僕は志望校のほとんどが遠隔地だったから、長期間そこにとどまって受験した。唯一の地元大学を受験するのも、遠隔地入試制度を使い移動を避けた。と言っても試験会場は1カ所にお尻を落ち着けてそこから行き来できるほど近くもなかったから、親の知り合いのところを渡り歩いた。遠隔地への行き帰りにも新幹線は使わずに夜行バスを使った。
何度か話したようにこのころは私立の総合大学は郊外に広大な土地を買ってキャンパスを開くのがトレンドだった。僕の第1志望大学も、学部別に3カ所のキャンパスを持っている。僕の志望しているところが一番都心から離れているわけだが、試験は交通の便がいいところというのが最優先であり広い土地は必要ないから、3カ所の中でも一番多くの学部が集まっているキャンパスで全学部の試験が行われた。帰りには大群衆が正門に、そこから駅に殺到することになるから、そこの学生が門を開いたり閉めたりして一定量づつを放出するようにコントロールしていた。それだけじゃ待たされる受験生がストレスを溜めるから、という理由だろうか、ボロボロの服を着て無精ヒゲを蓄えたお兄さんが門柱の上に立って、受験生のリクエストに応えて歌を歌ったり芸を披露したりしてくれた。これがお坊ちゃま校だって?いや、なかなかいい感じに汚い学生がいるじゃないか。僕はこの大学がますます好きになった。
予備校の模試では「英語しか出してない扱い」の大学の話はしたけど、そこの受験は逆にちょっとしたトラウマになった。前日に場所の確認をするために現地まで出向いたのだが、正門前のバス停に降りても奥に続く道路とその両サイドに立つポプラ並木しか見えない。そこから延々と奥の方に歩いて行くと、広大な土地に小さな建物群がかなりのスペースを措いて配置されたキャンパスが見えてきた。夕暮れ時で寒くてほとんど人がいないという風景は僕には廃墟に見えてしまった。授業とか入試の時とかは、バスがその建物群の真ん中に設けられたバスロータリーまで入ってきているようだが、入試前日は何もないので門前でバスを降りるしかなかったわけだ。
旧帝国大学なんかも似たような制度を取っているらしいが、この大学も入試時点で学部は決めない。1回生2回生の間に幅広い学問の基礎を勉強して、その中で本人の希望と成績により3回生から専門を決める。だから入試は全受験生が同時だし同じ試験、同時に来て同時に帰ることになる。
そして問題の試験なんだが、とにかく英語の試験に度肝を抜かれた。問題冊子を開かずに30分ほどの英語による説明を聞く。何についての説明とかヒントは一切ない。そして指示があったら問題冊子を開くんだが、家の間取り図が書いてあって事前に聞いた説明に則ってその家の中の様子に関する英語の質問に答えるという内容だ。
全受験生に同じ問題を出して、大学の個性を考慮せずに合格可能性を出すという予備校の模擬試験が意味を持たないことを、僕はこのとき腹の底から実感した。共通点は「英語の試験」であると名乗っている、それだけじゃないか。こんな問題の解き方習ったこともない。当てずっぽうで解答用紙を埋めつつ、僕はただひたすら「早く帰りたい」と考えていた。だから、帰りはキャンパス内のロータリーまでやってくるバスに順番を待って乗るのすらいやで、門前のバス停まで出てそこからとりあえず一番近い駅まで行くバスに乗って帰った。2度と受けるものか、そう思った。
夜行バスのカーテンをめくって遠くなっていく景色を見ながら、僕はそういう諸々のことがあったそれまでの数日間、これまでの人生で一番たくさんのテストを受けた数日間を思い返した。入試か。これで終わってくれればいいけどな。僕はそう思いながら、狭苦しい夜行バスのシートのリクライニングを倒して目を閉じた。

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