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中学の最後の1年間は、やたらに模擬テストが多かったっけ。高校に入ればしばらくそれもお休みなのかなと思っていたけど、少し甘かったな。進学を目指すクラスなんだからもう入ったときから入試直前ってことだろうな。
僕は模擬テストではクラスの最上位を取り続けた。何と言っても英語が完全に得点源だった。英語に限れば偏差値は80に近かった。その他、国語の中でも現代文はクラス2位のダブルスコアも珍しくなかった。数学は壊滅的だったけど、それはクラスのほとんどがそうだったから僕が英語で稼いだ点数を相殺するものではなかった。
学校で受けるもの以外に、僕は予備校が行っている模擬テストも受験した。このころから大学入試に「小論文」を課すところが増えてきたからだ。小論文に関しても僕はかなり成績が良くて、英語と小論文しか受験生に課してない大学を志望校にしておいたら予備校が発表するトップ30ぐらいには入っていることもしばしばあった。
僕は、年齢的には「団塊ジュニア」の中でもど真ん中ぐらいには入る年に生まれていると思う。両親は団塊とは言えないけど。僕の両親は団塊より世代的には上だ。だけど結婚も遅かったし、子供がなかなかできなかったという理由で僕が生まれたのは父が38歳の時だ。小学校の5年生か6年生だったときだ。理由はなんだったか忘れたがいずれにせよ、クラス全員の両親の名前と生年が一覧にされたことがあった。僕の父より年上の父親を持つクラスメイトはひとりだけだった。実を言うとそれがいまでも友達のあの男なんだが、類友ってやつだろうか。当時としては珍しい高齢親であった結果、子供である僕は団塊ジュニアど真ん中に生まれることになった。
団塊の世代というのは、戦後の復興のためにも子供を作ることが奨励されて突出して人口が多かった世代だ。その人たちは、生まれたときから労働力として期待されていたと言えると思う。中学あるいは高校を卒業したら、一刻も早く働いてくれ。社会全体がそう思っている時代だった。高度経済成長期の大量生産大量消費時代に入り、単純労働者を求める企業は多かったし、家族経営の店なんかが業務拡大で補助的労働力を求めている時代でもあった。
ここからは僕の想像だけど、そうやって都会へ出て大企業の工場みたいなところで単純労働に就いた、あるいは家族経営から「企業」への転換を図ったところで小間使いみたいな仕事をしていた人たちは「大卒」という名前があるかないかで給料も社会的ステータスも如実に違うということを肌で感じたんではなかろうか。大卒のエリートに顎で使われて悔しい思いをたくさんしたんだと思う。そして思ったんだろう。自分の子供にはこんな思いはさせない。絶対に大学を出させてやりたい、と。
だから、団塊ジュニアである僕たちの世代が高校を出るときというのは、史上空前の人数が大学という教育機関になだれ込む時期でもあった。この大学はこういう校風を持つとか、入ったらこういう勉強をするとか、課外活動としてこういうことが盛んとか、こういう人材をどの方面に多く輩出しているとか、大学にもそれぞれ個性があるだろう。これはいまでも間違いなくあると思う。
だけど、高校が進学希望の生徒にやりたい勉強や将来就きたい仕事など、いろんな話を聞いた上で「君にはこの大学が向いていると思う」なんて悠長なことをやっている余裕は僕らの時期にはなかった。だから偏差値というものが考え出されたんだと思う。大学の個性も生徒の個性も一切無視して、偏差値という数直線上に生徒を並べて、いい大学から先に上位を刈り取っていく。それが大学入試という儀式だった。国公立なんかは、一次試験とか二次試験とかある程度日付は決まっているけど、私立大学はものの見事に「いい」大学から入試が始まって、年度末に試験が近いほど偏差値が低い大学だったんだから実にわかりやすい。いい大学に落ちた人がその下のランクの大学を受けるというのがもうシステムになってたわけだ。
別にこれを批判しようとは思わない。空前の大量受験生を捌くにはこの方法しかなかったはずだ。だが、僕は後に統計学の初歩の初歩を学ぶことになり、この偏差値という数値の、統計処理としてのチャチ臭さを知って驚いた。幾何学の勉強をするために、まず長さを測ることを覚えましょう、たとえればそのレベルでしかない。
だけどこのチャチ臭い数字のお遊びで出た偏差値という数値に、当時は早い人なら小学生レベルから振り回された。高校生レベルでも、偏差値とは何かをちゃんとわかってたのはほとんどいなかったんじゃないかと思う。特に大学を希望する高校生にとって、偏差値とは「人間としてのレベル」そのものだった。そしてまた、高校でもちゃんと「偏差値とはこういうものだ」と説明して進路指導してた高校はほとんどなかったんじゃないか?
実は、統計というのは嘘をつくのにとても便利なツールだ。ちゃんと調べた信用できるデータですよ、を騙りたいときに統計というのは実に使い勝手がいい。
だいたいおかしいと思わないだろうか。たとえば現代国語の問題で「以下の文章を読み設問に答えなさい」というよくある問題だったとする。それが法学部の問題なら「以下の文章」は最近出た興味深い判決の判決文からの一部抜粋だったりするだろう。社会学部なら、社会評論文か新聞記事辺りになるだろうか。文学部なら誰か著名な文学者の小説からの引用だろう。生徒が受けたいと思うのはこういうバラエティがあるはずなのに、その生徒全員に同じ問題を出して「あなたが受かる可能性はこのぐらいです」と言っているわけだ。そういうことを全く考慮に入れずに偏差値でああだこうだ言ってるのだから、今から考えたら馬鹿馬鹿しい限りだと思う。
だけどこの当時の僕はそんなこと知りもしなかったし、他の多くの高校生と同じように偏差値が上がった下がったで一喜一憂していた。その偏差値に基づいて「お前の数字だったらこのランクだな」と指導されることにも何の疑問も持っていなかった。理系科目が低いから国公立は無理だな、私立で、と言われたら受け入れた。
そんなわけで、僕はこのころから進学希望の大学を私立に絞った。国公立に行けるように理系科目を頑張ろう、とは思わなかった。どこの大学に行っても、奨学金とアルバイトでなんとかするしかないと思っていたし、お金のかかる私立に行って親を苦しめてやりたいという気分も正直あった。
相変わらず、小学生のときに担任だった教師の影響で歴史を学ぶ意義を見いだせなかったから、僕は歴史の時間は寝てばかりいた。だから基本的に、英語と小論文だけで受験できる大学ばかりを選んだ。そして、ヨーロッパ文化への憧れは全く代わっていなかったから、語学教育が盛んで留学制度の充実しているところをターゲットにした。中でも、日本でもトップの私大が新しく作ったふたつの学部は、当時画期的とも言える教育内容だったので僕はそのふたつの学部を第1、第2志望にした。そこは、数学または英語から1科目と、あとは小論文というのが入試だった。また、このころいろんな大学が作っていた新設学部にありがちだったが、そこは都会からかなり距離があって、ネリーの住環境としても悪くないんではないかと思えたところも魅力だった。
実はこのころ、こうやっていろんな大学で新しい学部を作ることが盛んだった。それは多くの場合、なんとなくかっこいいけど結局何を勉強するのかわからないような名前で、そして実際教育内容も結局学生をどこに導きたいのかわからないような学部が多かった。文系なのか理系なのかすら判然としないのだが「文理の枠を超えて知を結集して新時代の学問を創造する」みたいな売り文句が人気を集めてしまった。学問の境を超えるということで一般的に「学際学部」と言われたが、後から思えばこれは大学が学生数を増やすための言い訳だったと思う。
いわゆる「滑り止め」で社会系の科目が必要なところに関しては、選択肢は少なくなるが「政治経済」を選択できるところを受けることにして、これは直前の数ヶ月で詰め込める科目なので模擬テストの成績が悪くても気にもしなかった。
こんな僕でも模擬テストではシルバートップでゴールドを入れても10位台には入るという状況だったのは一重に英語ができたからだ。だけど定期テストの成績は振るわなかった。一夜漬けすらしないのだから当たり前の話だ。シルバーの中でも成績優秀者として授業料が全額免除になっていたけど、教員会議では僕の定期テストの成績が悪すぎることが問題視されていたらしい。担任が頑張ってくれたおかげで僕のその扱いは変わらなかったわけだが、僕は担任に呼び出されて事情を聞かれることになった。僕は詳しい事情を説明しなかった。自分でもやる気にならない理由を明確にわかってなかったんだと思う。だから僕は「免除がなくなっても構いません」とふて腐れることしかできなかった。
だけどいまになって思う。僕が普段どんなことを考え、どんなことに悩み、どうなりたいと思っているのか、ちゃんと知ろうとしてくれている大人が僕の周りには誰もいなかった。学校の先生は、テストの成績を見て評価するのが仕事だ。点数ばっかり追っかけている教師という存在に当時は反感を抱いたりもしたけど、それで役割は果たしている。親戚が僕のことを気にかけるのは嫌になることも多々あったが、制服をお世話になった伯父さんみたいな人もいるから無碍に拒否するわけにはいかない。そしてやっぱり、親戚に「僕のことをちゃんと見てくれ」と要求するのは筋違いだろう。
結局のところ、親だよな。相変わらず、僕に対しては「エサはやってるんだから飼い主として文句言われる筋合いはない」的な接し方しかしていなかった。僕が何を考え、何に悩み、何になりたくて、いま興味があることは何で、というようなことに全く関心を持っていなかった。英語と小論文の成績は良かったから、第1、第2志望の2学部に関してはいつも模擬テストで合格可能性80%という数字が出ていた。それを見て、僕の親は何と言ったと思う?「いつも80%ちょうどやな」だ。毎回小数点以下まで合格可能性を計算しているわけではなく、ぼんやりとの指標として80・65・50・40とかなんかそんな感じの何段階かの数字を出すのが模擬テストだということすら知らなかったのが僕の親だ。口先だけの「お前が一番大事」に全然実質を伴っていなかったのはひしひしと感じる。
だいたい、僕がネリーと一緒に毎日を過ごしていることにいまだにまるで気がついてない。このころ、僕が考えていたことを一番よく知っていたのは多分ネリーだろう。ネリーはしゃべらないからどこまで知っていたか全部はわからないけど、なにせ僕の好きなタイプすら正確に把握していたぐらいだからな。僕という「人間」に、関心を持っていた「人間」はひとりもいなかった。
このころの経験が結局尾を引いているんだと思うけど、親というのは子供の考えていることを理解することはあり得ないと僕は思う。だってそうだろう?自分の考えていることを完璧にこの人はわかってる、という人が、あなたにはいるだろうか?いないだろう?相手のことが本当はわからないから、僕はこう感じこう考えます、ということを伝えて、あるいはそれを相手から受け取るために言葉というものは存在する。相手をわかろうとする努力は、相手のことがわからないということを認めることから始まる。そういう意味で、親というのは単なる「一番そばにいる他人」だ。だけど、親子であるということを何か特別なことだと思っている僕の親は、僕の親であるというだけで僕のことはすべてわかってる気になってるのは明らかだった。親子だから家と土地を遺してくれるはず、と信じていて裏切られたことからなんにも学んでいない。親であるというだけで僕に対して特別であるつもりでいるこの親は、子であるというだけで特別なことをしてくれるものだと思って僕を育てているだろう。そういう将来のことを思うと、僕は気が重かった。
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