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 このころの、新しい(と、当時は見做された)生き方のキーワードを挙げるなら「自分を表現する」ではないかと思う。
 挫折しては方向転換という生き方についてネリーと語り合った時にも言葉だけは出したが、このころから異常に「自分らしい生き方」というのが叫ばれ出したような気がする。僕が後に夢中になって読む心理学者のエッセイでこの「自分らしい生き方」というのは散々に批判されている。僕も、いまとは違うこういう自分こそが自分らしい生き方だ、と認識している時点で自分らしくない証拠だと思う。
 だけど、このころの人たちは揃いも揃って「他人と違う自分」を想定して、それを誇示することに躍起になった。それと同じころだけど「派遣」という働き方が法律で認められた。それ以前からなかったわけではないのだが、法律ができたことで正式なものと認められたわけだ。このころは「会社に縛られない新しい生き方」とかで「自分らしい生き方」のための一側面というのは確実にあった。
 こんな社会なのに、なぜか「学歴に縛られない新しい生き方」という波はティーンエイジャーのところまでは及んでこずに、相変わらずいい高校からいい大学に入っていい就職をするのがいい生き方だったのは、今から考えるとちょっと不思議な気もする。
 だから、高校生たちは所有物に自己表現の手段を見いだした。前にも話したけど、時計とか靴。ブランド物であるかどうかというのは男子高校生にとって大して重要ではなかった。山本くんが持っているような、いかにも男子好みなギミックがいろいろ詰め込まれた時計の方がみんなの憧れを集めた。
 それからこのころ重要だったのが、音楽を聴くための道具。自宅にどこの会社の何というミニコンポを持っているかというのは「個性」の重要な側面だったし、それ以上に大事だったのが直接他人の目に触れる持ち運び型のステレオカセットプレーヤー、ウォークマンという商標があまりにも有名なあれだ。これに至っては、男子高校生のみならず大学生や社会人に至るまで、およそ若者を自認するすべての人にとっては重要なアイテムだったのではないかと思う。だから、本体デザインがおしゃれなのはもう最低条件、オートリバース機能やダブルカセット仕様、グラフィックイコライザつきなど家電各社は競うようにカセットテープのケース大の機械にやり過ぎとも言える機能を詰め込んだ。
 靴については、このころ2センチ四方の正方形を対角線で切ったような大きさと形の三角のプラスチック板で模様をカスタマイズできるスニーカーが大流行した。このプラスチック板はすごく外れやすかったが、当時は外れたらまた買えばいい、それも個性の表現のひとつ、みたいな風潮だった。
 もちろん、僕はそんなものすべて持ってなかった。自宅の音楽試聴環境はラジカセだったが、これに関しては家に友達を招かない限りバレることはない。ウォークマンに関しては「本を読んでいる方が楽しいから」とか「動いているときに周囲の音が聞けないと不安だから」というような理由で「持たない主義だ」ということにしてた。親が買ってくれるはずはなかったし、自分で買えるとしたら持たない方がマシみたいないかにも安物だったから。
 それらすべて、最高級品を持っていたのがやっぱり山本くんだった。あんまり自宅の環境について話したがらないから彼がどこの会社の何というコンポを持っていたのかは知らないが、少なくともウォークマンについては当時「普通の家の子」では手が出なかったコードレス式というのを持っていた。
 僕には特に仲がいい友達がこの山本くんを含めて3人いた。この3人はみんな学校より北の方から通学していた。だから乗る列車は反対方向になるんだが、駅までの帰り道は一緒に帰るのがなんとなく習慣になっていた。
 他の「ごく普通のクラスメイト」と何ら変わることも感じない、男子校の生徒らしく健全に女子とのふれあいに飢えていて、従って適度にスケベで、身につけているものは特に高そうでもなく安そうでもないという並木くんという友達がいた。特徴と言えば少々ガタイがいいというぐらいだろうか。車が大好きで早く免許を取って車を持ちたいという話をよくしていた。そんな話の中でのことだ。
「俺、車庫入れぐらいやったらもうやってるからね」
 多分、車の免許を取るときに誰もが一番苦労するのが車庫入れじゃないかと思う。話を聞いたら、お母さんが車で家に帰ってきたとき、後の用事をすることが気になって並木くんにキーを預けて車庫入れを任せ、お母さん自身は次の用事にかかっているのだそうだ。
「なんでお母さんそんな忙しいの?」
 何気なく、僕は訊いてみた。並木くんはあっけらかんと答えた。
「働いてるからね。うち、片親やから」
「え?そうなん?お父さんは?」
「いや、俺は知らんけど、多分俺が小さいころにこれちゃうかな」
 そう言って並木くんは両手の人差し指を立ててくっつけた状態から両側に離していった。
「やからな、うちのオカンもカネ稼ぐには必死になっとるんよ。で、最初は物件借りてエステサロンとかやったんやけど、これが空振りでな。どうもそのせいで借金も作ったみたいで、そのあとはフォークリフト免許取って、男ばっかりの現場で肉体労働してるわ」
 後に語ってくれたが、日本中が好景気に沸いていたこのころ人並みの生活を演じるために少々無理をしていたのはこの並木くんも一緒だった。その時は、お母さんが頑張ってるから片親でもこうやってそこそこの生活しているんだな、としか思わなかったけど。
 それでも、並木くんがこうやって少々無理をすれば「他のクラスメイトから見てもそう見劣りしない」レベルを演じられたのは、一重にお母さんの頑張りだと思う。エステサロンというのは典型的な「贅沢商品」だ。日本中が余ったお金の使い道に困っている時代だったから、マダムたちもやっぱりお金をどう使うかを考えていて、女の人だから自分がきれいになることに使いたがる。だからエステというのはこのころに限り結構な成長産業だったことは事実だが、素人がいきなり参入して利益が出るほど甘い世界ではないだろう。
 でも並木くんのお母さんが本当に偉いと思うのは、自分がそうやって甘い夢を見て失敗したという現実をしっかり受けとめて、フォークリフト免許という付加価値を自分につけた上で、このころ一番嫌われていた肉体労働の現場に女の身ひとつで飛び込んでいることだ。だから並木くんは片親でも、こうやって「一見してわかるほど貧乏ではない」生活をすることができている。
 それに比べて僕の両親はどうだ。祖母からの遺産とか、西日本営業所の所長としての座とか、祖母の飲食店の手伝いでもらえる給料とか、あやふやなものに頼り切って全部空振りして、継ぎ接ぎの当たった靴下を僕に履かせて恬として恥じてない。それどころか、靴下に継ぎを当てる作業を見てる僕に母が何と言ったと思う?
「こんなんクラスの友達に見られたら何て言うかな?『お前のお母さん、嫁にくれや』かな?喜んで行っちゃうけどな」
 だ。誇らしいことをしているつもりでいるわけだ。
 以前、僕の高校の先輩にあたるお兄さんのところに古着をもらいに行かされた話はしたけど、僕が着ている制服だって、親が用意してくれたものじゃない。そのお兄さんのお父さん、つまり僕から見て伯父さんは、大手百貨店の部長だ。どこにでもある学生服だったから、ボタン以外は百貨店でも扱っている。お祝いだとかそんな恩着せがましいことはひとことも言わなかったけど、中学の時に着ていた学生服ではもういろいろと限界だという話題にたまたまなったときに「うん、なんとかしよう」と言って用意してくれて、それが少し、ズボンのウェスト周りが大きかった。伯父さんはただ「わかった」と言って持って行ってくれて、また持って来てくれたときにはぴったりのサイズになっていた。支払いはどうしたらいいでしょう、と訊いた僕に伯父さんは「それは、なんとかする」とだけ言った。結局、用意するところからサイズの調整に至るまで全部伯父さんにお世話になったわけだ。
 なんだかんだゴタゴタが続いていた間はまぁわからなくもない。だけど祖母だった人は僕らとは無関係の人間になった上で、僕らの知らないところで知らない日にこの世を去った。その後の裁判も、いろいろあったことは確かだろうが法律的に一枚も二枚も上手だった相手にいくらか恵んでいただくという形で終わったはずだ。つまりいまは、ふたりとも単なる「会社の従業員」でしかないはずだ。
 それなのに、何だ?父は朝原付で出かけたら高卒ばかりの職場で学歴なんにも関係ない仕事をしてだいたい毎日定時で終えて、帰ってきたらプロ野球見ながら安酒飲んで寝る。母はそれよりはちょっと役割が多いと言えるが朝出かけて帰り道に買い物をして食事を作る。その後寝る。その間、ふたりで「よかったなあ」「よかったねえ」と頷き合っているわけだ。僕は全然よくはない。原付が運転できるなら出勤前に朝刊を配るアルバイトぐらいはできるはずだぞ?母だって、自転車しかないなら担当地域は少し狭くなるだろうが同じことだ。この辺りで一番大きい新聞販売店にふたりで行けば、月々数万円の余裕はできるはずなんだが?
 学生服をお世話になった伯父さんは、高級百貨店のフロア責任者でもあった。お父さんを早くに亡くしたとかで、僕の父より若いけど高校までしか出てない。バイヤーもやってたから出張が多くて、親戚の中では離れて住んでいたと言っていいうちの近所に仕事で来るときにはよく泊まりに来てくれた。そういうときには、両手に抱えきれないぐらいのお土産を持って来てくれた。ビールが大好きな伯父さんで、来てくれるとわかった日には大量にビールを買い込んで迎えたものだ。飲み友達として父と気が合って、そういう日には父も手ぐすね引いて待っていたっけな。
 僕が剣道をしていたとき、自分には合わなくなった防具をくれた従兄がいる話はしたと思う。そのお母さんが、僕の母が父に殴られたときに逃げ込んだあの伯母さん。その夫である伯父さんは、この人もまた百貨店の従業員だ。大正の一番最後の年に生まれたというこの伯父さんは、時代背景もあり学校教育なんてほとんど受けてない。だから出世はできなくてお客さんの前に立つことはなく倉庫で在庫管理一筋だったが、明るい性格と早い機転を活かして勤務先で重宝がられていたと聞いている。この伯父さんもずいぶんお酒好きで、うちの父は飲んでて一番楽しい相手と言っている。
 このふたりの伯父と僕の父。生まれ年はそう離れていない3人の酒好きの中で、飛び抜けて恵まれた環境に育ちいい教育を受けているのがうちの父だ。にもかかわらず一番しょうもない仕事をしている。しょうもないなんて言葉は間違っているかも知れないが、生まれついた環境を活用することをちゃんと考えて生きてきていたら、今ごろもっと社会的地位も高い仕事はできていたはずだ。仕事じゃなくて、せっかくの宝を持ち腐れてしまう父の人間として男として父としての力がしょうもないんだな。恥ずかしくないのだろうか?
 要は、僕の親ふたりにとっては自分だけが生きられればそれでいいのだろう。子供である僕なんか、余力で育てているだけだ。動物を飼っているのと大差ない。自分だけが生きられればいいところ、子育てまでやっている。それをとんでもなく大層なことと考えているから、子供である僕に対する物言いがどうしても恩着せがましくなる。要するに「お情けで飼ってやってるんだ、文句を言うな」というのがこのふたりの子育てに対するスタンスということなんだろう。やっぱり僕は、この親の下をできるだけ早く離れるべきだ。というか、離れるチャンスはひとつ既に逃していたんだ。中学を卒業するとき。視野が狭かったなと思う。定期的に開催されて生中継されるスポーツでは僕は相撲が好きだ。身長はないし運動神経も鈍いから力士になろうなんて考えたことはなかったが、行司や呼び出しなど裏方にならなれたはずだ。なぜそうしなかったんだろう?
 昔のことを悔やんでもしかたがないが、とにかく大学に進学の時にはこの状態から脱出しなくちゃ。そしてやっぱり、脱出した先にはあの楽しい中学校時代の思い出があって欲しかった。だから、見も知らない土地に行くことも脱出するという目的には適うということに、僕は気がつかなかった。