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僕の家があるこの市は、県庁所在地の南隣という地の利もあり、なんとか台という名の新興住宅地が数多くあった。どちらかと言うと東西に長いこの市は、前にも言ったけど、市の中では東方向にある2両編成コトコト電車が走るJRの駅と、そこからやや離れてその駅が終点になっているある私鉄の駅を中心として文化遺産がたくさんあり、そして市役所をはじめとする公共の施設もたいていはそっちの駅の方が近い。歴史的に見れば、JRはそういう需要の多いところをつなぐようにして作られているのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
塾の講師をはじめとして、受講生の連中もまるでその路線を使えるのは特権階級の証とでも言いたげに使っていたあの私鉄は、もともとこの県の県庁所在地と南の県の県庁所在地を結ぶのに特化していて、間は田んぼの真ん中を突っ切っているので速いのは当たり前だと思う。だから僕の住むこの市にも駅はいくつかあったが、その駅の周辺は開けたのもごく最近で、沿線にはいかにもブルーカラーの働く場です、というような会社が多くて、住人もどこか柄が悪かった。まぁ、父の会社はその辺なんだけど。この市は東西の移動手段が極めて乏しく、1時間に2本ぐらい来るはずの、細い道を無理矢理通っているのでダイヤが全く当てにならないバスが2路線程度あるだけだった。だから父は雨でも風でも原付で出勤していた。
僕が中学生のころ一緒だった野川とか黒崎が住んでいる住宅地に文化センターがあるんだけど、その住宅地も名前はなんとか台だ。広いけど、バス通りの片側に広がっていて、そのバス通りにあるバス停ひとつだけが公共交通機関、自家用車がないと暮らせないようなものだし、土地の傾斜もキツいから、住宅地としての人気は今ひとつらしい。
僕が住んでいるこの住宅地もこれこれ台、という名前だけど、開発を主導したのは私鉄の子会社だ。JRの駅からちょっと離れたところにあると言ったその終着駅を持っている私鉄だ。この市の中を走る路線バスもほとんどグループ会社になるので、僕の住んでいる住宅地の中はバスが一周する。うちの両親とつながりができてこの住宅地を勧めてくれた親会社のエライさんというのは実はこの私鉄の経営陣のひとりだ。うちの両親の背中を押したひとりということになるのだろうけど、この人は詐欺師ではない。知人の伝で、家を探している人にグループの住宅地を紹介しただけだ。バスが一周し、幹線道路2路線へのアクセスがよく、日用品や食料品を買う場所への行き来も黒崎たちが住んでいるあっちよりいいこの住宅地は人気が高く値段は順調に上がってるらしい。
実は近くに、もうひとつなんとか台の名を持つ住宅地がある。ここは狭いし、専用のバス停もない。住宅地としてはすごく不人気で、建っている住宅もなんとなく狭くて安っぽく、せっかくの新興住宅地なのに贅沢感がない。道路らしい道路が真ん中辺を突っ切っているけど、その通り沿いには職安があるのが目立つぐらいで、店のたぐいも公共施設のたぐいも何もないに等しい。
その道路を行けるところまで行ってみると、突然ブツッと道が終わっていて、そこからは眼下に2両編成の電車が走る線路が見え、ちょっと離れたところに目をやるとこの市の中央郵便局が見える。その道路を挟んで向かい側に不人気な海外の大学の日本校があり、キャンパスだけはやたらに広くてきれいだ。
そのキャンパスが見えるところからは、そこまで来ている太い道を戻る以外の行き先があるとすれば、僕が「出所」したあの中学のちょうど裏手くらいに出る細い道があるだけだ。そこから先はふたつに分かれて、中学の正門の方に行く道があり、もう1本はさらに細い道になって線路の方へ続いている。ここに小さい踏切がある。幅は軽乗用車を達人が運転すればなんとか通れるかもしれないというぐらいだった。それをさせないためだろう、前後にガードレールの支柱みたいな鉄の柱が立てられていた。つまり人と自転車専用だ。
狭いこの踏切を通ったら中央郵便局の横手ぐらいに出るので、近所にある小さい郵便局では足りないときは僕はその道を通って中央郵便局に行くようになった。
それにしても、この幅の道がブツッと途切れているのは全く趣旨が不明だ。延長するにしても郵便局前を通る割と幅の広い通りに合流できることぐらいが関の山だ。仮にそれをするにしても、かなり大規模な陸橋工事が必要だろう。そこまでして、大して便利でもない郵便局前の道路に接続させても利益はないので、まあ、壮大な計画だけがあって、頓挫した夢の残骸がこの状態なんだろうな。
そのころ、その大学日本支部校は不人気が祟って廃校するんじゃないかという噂が流れ始めていた。度々、その途中でちょん切られたような道路からキャンパスを眺めていたが、広いことは広い。全体的に白い大理石作りで、きれいと言えばきれいだ。多分偽物の大理石だとは思うが。それにしても、贅沢に土地を使ってる。高い建物がなくほぼ真っ平らだ。
一応、日本ではよく名前を知られた会社で、会社で制作する毎年のカレンダーに起用されるモデルが話題になるいくつかの会社の中のひとつレベルには大会社である会社が主力工場を置いていた場所だから、そりゃまぁ広大な敷地ではあるんだが、それだけの土地をまるごと買い取ってこんな贅沢な土地の使い方をしたキャンパスにして、日本では大学を出た扱いにならない大学を作ろうなんて、ビジネスに厳しいアメリカ人にしてはずいぶん甘い見通しのビジネスをやったもんだ。このころにはもう水面下で土地の買い主を探しているなんていう情報も流れ始めていた。
不便だが街の中心駅であるJRの駅と、そこからちょっと離れた私鉄の駅は、街の中心駅でありながらどちらにもバスロータリーがない。バスの通り道で言うとこのふたつの駅は同じ路線のバスが通るんだが、僕の家からバスに乗るとまずJRの駅に停まり、ふたつほどのバス停を挟んで私鉄の駅前に停まる。そこからさらにバス停4個か5個を挟んでバスは終着になる。そこにあるバス会社の車庫がこの辺を運行するバスの起終点だ。
実は、この大学の土地をかつて持っていた会社は、JRの駅から分岐する貨物の引き込み線を持っていた。工場が移転した以上、引き込み線の必要はない。この引き込み線や関係設備を取り去ることができたので、JRの駅はいくらか土地に余裕ができた。そこで若干ホームを移動させた上で駅舎を橋上に移して、窓口機能をそこに集中する計画を立てた。この駅は島が2つありそれぞれの両側に線路を持つ4線の駅に拡大されることになった。将来的には、この路線自体を普通電車以外に快速も走る路線に改良して使いやすくするという壮大な構想が発表された。
ここまでJRがやる気になったきっかけになったんじゃないか、と噂されている出来事がひとつある。僕の住むこの県に負けず劣らず歴史があり名所古跡が多い南隣の県は、ハッキリ言って田舎だ。遠くからこの県の名所巡りをしに来る人は、まず間違いなく僕の住むこの県の県庁所在地に新幹線で到着してから電車を乗り換えて行く。まさに僕が高校生の時だったが、この南隣の県で名所古跡をテーマにした博覧会が実施された。これを受けて新幹線を持つ会社が新幹線の切符と博覧会の切符をセットにしたチケットを発売した。だが、新幹線の駅から博覧会場への移動は、同じJRグループのこの2両編成電車の切符ではなく、田んぼの真ん中を突っ切っている私鉄の方の特急券だったのだ。同じJRグループから受けたこの扱いには危機感を覚えたらしい。確かに、このころからこの近辺の鉄道事情はずいぶん改善されていくことになったのは間違いない。
だが、それだけではこの市内の交通状況の改良工事は説明できない。JRの駅は、そこまで拡張工事をやっても十分土地はあるとして、駅前にタクシー乗り場を兼ねたバスロータリーを作ると発表した。ほとんどの人が電車を降りたら乗る必要があるバスに乗るには駅から信号を渡って50メートルほど道路沿いを歩いたらそこに存在する、若干道路が広がっただけの場所で待つ必要があった。一応屋根らしきものはあったものの夏はギラギラと照りつけられるし冬は寒風吹きすさぶし雨が降ったらびしょ濡れということで極めて評判が悪かった。ロータリーを作ると、どっち方面に行くにも駅から出てきたらバスに乗るのに道路を渡る必要がない。
こうなったら黙ってないのが私鉄の方だ。その鉄道会社にとっては支線に当たる路線の終着駅という事情もあり、そのころのこの駅は凹の字型のホームの中に2線の線路が車止めで止められた形で入っていて、普段使われているホームはそのうち1面だけ、周りを簡単な柵で囲んであって、その柵が開くところが改札口。普通切符の券売機は改札口のすぐ横にあったが、定期券などは道路を渡ったところにある2メートル四方ほどのプレハブ小屋の中にある窓口で買う必要があり、その小屋はバスの待合室も兼ねていて、この辺りは道路が狭いこともあって常に渋滞していてこっちも評判悪かった。
そもそも、このふたつの駅の間には僕とネリーが剣道をフケていたときに最初に利用した中州の公園がある川が流れていて、その川を渡る橋は狭く、しかも車の通行に当たってはその橋のすぐ脇でクランク型に曲がる必要があり2重に信号を待たねばならず、人にとっても車にとっても優しくない道だった。
だから、僕の住む市はいろんなところの交通を改善するために本気を出し始めたということだ。新しく住む人が次々に引っ越してきていくらか財政事情が良くなってきたことも確かなんだろうが、このころ僕がよく聞いたこの人の名前とこの交通事情の改善との関係は、全て終わってからかなり長い間考えてわかったことだ。風が吹けば桶屋が儲かる的な話ではあるけど、この地でその名前が有名になったことと、本来の市街であるこの辺りの開発は間違いなく同じ出来事の異なる断面だ。その人の名前だ。
「朝日勇太郎」
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