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ずーっと後の話だが、僕は詐欺をテーマにした漫画に夢中になることになる。その漫画の主人公は当然詐欺師だ。そして、その主人公の台詞にこういうのがある「気づいたときには終わってる。それが詐欺ってもんだ」。実際そうだと思う。だって本当に、僕の両親が気づいたときにはあちらさんは全て仕事を終えていたんだから。
祖母は、名目上父を保証人として入院していたはずだった。その病院から父の足が遠のいていたのは確かだけど、その父の配偶者たる僕の母は、いわば父の名代として病院へ赴き、でき得る限りの時間を祖母の介護に充てていたはずだ。
しかし、その母はある日突然祖母が退院していたこと、そして自分の立場はその祖母の養子ではなく、時々見舞いに来ていた知り合いのひとりにまで後退させられていたことを知る。慌てて弁護士に相談した僕の両親は、そこで初めて祖母が「死後離婚」していたこと、旧姓に戻っていたこと、あの上品そうなおばあさんから紹介される形で、病院に複数の強面の連中が度々訪れていたこと、自分の遺産を全部その強面たちに譲るという遺言を残していたことなどを知ることになる。まさに、気づいたときには終わっていたのだ。
正規の手続きを踏めば配偶者死後に姻族関係を終了させることができる。同時に「復氏届」というのを出せば、婚姻に伴って姓を変えていれば元に戻ることができる。まさに離婚したのと同じ状態になるわけだ。父を捨てようとした祖母は、逆に自分が離れることにより、祖母自身を搾取し続けてきたうちの「血筋」に反逆した。
祖母がいなくなってからも、この先どう転ぶかわからないという理由で、母はひとりで夕方以降だけの飲食店を続けていた。店を守るつもりで行っていたその母の行為は、気がつけば土地と建物の不法占拠ということになっていた。このころは日本が異常な好景気に沸いていたころであり、その根底にあるのは土地の価値の暴騰だ。日本でも有数の観光名所の門前商店街の中にあり、その中でも祖母の店は来た人が必ず前を通る絶好の立地だ。狙われて当然だ。
いずれにせよ、これは本当に大変なことになったとやっと僕の両親が認識したのは、そういうわけで土地と建物の所有権者が正当な権利を行使したときだった。その権利者本人か雇われだったのか僕はよく知らないが、とにかくその権利を伝達しに来た人たちが店の前に居並んだときだ。裏地に金ラメの糸で昇り龍の刺繍がしてあるようなスーツをちらつかせ「法的に正当な手続きで」不法占拠者の排除をしに来たのだった。
この件に、僕の父は激怒したそうだ。した「そうだ」というのも、全てが決着してから母に聞いた話だから。父は昔から、僕にお金の問題について話すのを嫌った。父の言い分では、父自身が、自分の実父にも養父にもお金では困らないように育ててもらったことにだけは感謝しており、だから自分もお金の問題で子供を悩ませたくない、ということだったらしい。だけど、僕はこの理由は後付けで思いついたことだと思う。父の実父も養父も名士だ。高額納税者ランキング、いわゆる長者番付にも顔を出したことがあるくらいの人たちだ。だが、父はそれまで人並みの収入すら夢のまた夢というような収入しか得ておらず、しかも母が生保レディで多額の収入を得るようになって生活の余裕ができたときにも将来設計を見つめ直すでもなく考えたのは酒と女遊びだ。だから父が僕にお金の問題を話したがらないのは逃げだったとしか、僕には思えない。
そういうわけで、僕の両親は「遺産相続をめぐる裁判」という、ある意味およそこの世の中でこれ以上は考えられないと言ってもいいような面倒くさい出来事に巻き込まれることになる。父は「全額取り返してやる!」と息巻いていたらしい。これもあとから母に聞かされた話なので伝聞調で話すしかないのだが、こんなことを言っている時点で父の負けだと思う。父の言うとおり全額取り返すようなことができるんだとすれば、父と母が祖母に対してやって来たことは人道的にも法律的にも一点の傷もないと主張するしかない。だが、そうならばそもそも取られていないわけで、まずいことだらけだったからこそ「法的に正当な手続きで」金ラメスーツの連中のところに行ってしまったわけだ。
僕の記憶に残るこの期間は、とにかく家にひとりでいることが多かった期間だ。寂しかったわけではない。むしろ楽しかった。ネリーと思いっきり遊べたし、好きなものを飲み食いできた。僕はこのころ、飲みやすいアルコール飲料の存在を知っていた。ワインだ。
表面上、奨学金の中から2千円だけを自分の小遣いに充て、あとは将来に備えて貯金しておくことには変わりなかったが、僕名義の口座にしか奨学金は振り込まれない以上、その管理は親がどう思おうと僕がやるしかなかった。だから僕は時々そこから引き出して自分の楽しみに使っていた。自宅から自転車で行ける範囲で酒のディスカウントショップも見つけていたので、僕は時々手ごろなワインを買っては家で飲んでいた。日本酒と違ってあの喉が抵抗するような感覚がないし、ビールと違い途中でやめてもワインは蓋をしておけば時間をおいてまた飲める。なにより美味しそうなワインをチョイスしてワクワクしながら封を切って、これはこんな味だったな、とあれこれ感想を持つことはオシャレなことをしている気分だ。
僕のもとを離れる前、すごくでっかくなったネリーは、僕が自動販売機でビールを買って飲もうとしたら強硬に止めたことがあるのを、僕は忘れていなかった。だからワインを飲み始めたとき、グラスをネリーに差し出して感想をたずねたことがある。ネリーは飲みこそしなかったものの、これは危険なものだとも感じなかったらしい。僕は後ろ暗い思いをせずにネリーの前でグラスを傾けた。
ある日もワインを飲んでいた。たまには珍しく景色のいい部屋で飲むかな、そう思った僕は、ワインと肴を持って、ネリーとの再会の場になった部屋に行った。少しアルコールが体に回った状態で、まだほんのわずかだけ赤みを残した空と、それをバックに浮かび上がる山の稜線を見ていると、とても幻想的な風景に見えた。
もっときれいな風景を見ながら飲みたい、なんとなくそう思った僕は、ワインの野外飲みという暴挙に出た。水筒にワインを入れ、チーズを切ってラップで包みポケットに入れた。そうしてネリーの森に行って、星空や街の明かりを肴に飲もうと。
ネリーの森に来るのはいつ以来だろう?この森はいい。まだ入り口に近いところでは、眼下に街の明かりが広がる。奥に行って人工的な明かりと縁が薄くなるに従い、空にある天然の光が際立つ。もしかしたら、この世とあの世ってハッキリした境界があるものなんじゃなくて、こんな感じでグラデーションになっているんじゃないか、そんな感覚を覚える場所だ。あの満天の星空の中に、ネリーに連れて行ってもらうことができないのは、ちょっと残念だけど。
だけどふと気がついたら、周りにずいぶん虫が寄っていた。季節的に大した虫はいないはずだったが、それでもこれだけ寄られるとゆっくりワインの味を楽しんでいるわけにはいかなかった。
「なんだろうねネリー、この虫の数。何かわかる?」
僕はそうネリーにたずねた。そうしたらネリーは宙を舞って木の幹を指し示した。何かがベットリついているように見えた。樹液?どうやらそうらしい。もしかしたらワインを樹液的な何かだとこの虫たちは思っているのかも知れない。
酔いも手伝って若干判断力をなくした僕は、ワインを木の幹にぶちまけて、明日朝早く見に来ようとか、出来もしないことを考えてしまった。だけど、それだけでもいくらか虫は集まり始めているように見えた。ほとんどは集まっても嬉しくないタイプの虫だったけど、蛍とかもいたような気がした。あくまでも、このときは。
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