精神疾患になりました

就労継続支援B型カチカの利用者、nm(ねむ)と申します。

統合失調症と双極性障害と戦う、一人の人間です。

自分のことを好きになれない私が、自分のことを少しでも好きになれますように。

大嫌いな明日が、少しでも楽しみになりますように。

そんな思いから、初めてエッセイを書こうと思いました。

私の文章が誰かの明日を照らす灯火になればいいな。

 

さて、前回は私の経歴についてお話ししました。( 気楽にまったり、今日も空色。 )小学生の時から大学生活を送り始めたところまでざっくりとお伝えしています。

今回は、今まで普通の人生を送っていた私が、どうして「あなたは病気です」と言われるまでに至ったのかをお話していきたいと思います。

 

きっかけは、ゴールデンウィークに母が長崎まで遊びに来てくれたことだったと思います。長崎で食べられる母の手料理、気の許せる母と出かける長崎旅行……。

母が静岡へ帰ってしまうその日に、母がちょっとだけ涙を見せたことが胸に刺さりました。

「寂しくなるけど、頑張るからね」

そういって母と離れがたくなって初めて、「あ、一人暮らしってこんなに寂しかったんだ」と実感しました。

 

その次の週だったでしょうか。

朝起きられなくなるという、最初の異変が起こります。

その一週間すべての授業の一時間目に出られませんでした。

管理栄養士になるカリキュラムは、単位を落とすとほぼ留年が確定するものがあります。

また、栄養科の学生は40人と少なく、調子が悪いことも「みんなが知っている」という状況。とてもいたたまれない。

焦れば焦るほど起きれなくなり、そのうち保健室登校になりました。

 

病院に行きましょう。

保健室の先生と、生徒指導の担当の教授に言われました。

五月に発症したこの症状は、六月の中頃には登校の足であるバスに乗ることが苦痛になるほどになりました。

起きられない、学校が始まる時間に起きられない。普通の時間に学校に行けていない私が、周りからどんな目で見られているか怖くて。

泣きながらバスに乗る毎日が続いて行く中で、消耗しきった心で告げられる、留年か休学か、退学か。

 

そこまで追い詰められて初めて、両親に「学校に行けていないんだ」と電話で告げました。

「ごめんなさい」と言うと、母は、「明日お父さんを送り込むから待ってなさい」といい、本当に翌日夕方の新幹線で父が来ました。

片道7時間掛かるのです。

そのありがたさにまた泣きました。

父は三日間私に寄り添い、「大学はやめたくない」という私の意見を聞いてくれました。

 

この時初めて行った心療内科で出た診断は、「非器質性睡眠障害」というもの。

後に静岡で受診したときの担当医には、「本当に?本当にそう言われたの?」と言われましたが、この診断、本来は睡眠機能を測ることのできる施設で検査してから診断されるものだというのです。

それを知らなかった当時の私でも、この診断と先生の態度に疑心暗鬼になりました。

処方された薬はモディオダールというものだったと思います。

過眠症の治療に使われるお薬です。

 

これがまあ致命的に合わないこと合わないこと。

過眠の主訴の私に出されたものでしたが、今度は眠れなくなってしまったのです。

眠い。眠れない。朝が来る前に寝なくては学校に行けない。なんで夜は終わらないんだ。

朝になると眠気が来て眠れるのですが、授業には遅刻する。

起きられないとは言ったが眠れなくなるとは聞いてない!

誰も起きていない夜が恐ろしくて、泣きながら一晩中テレビをつけるのですが、そのうち砂嵐になる。

テレビさえも私を置いていく。その絶望を繰り返しました。

 

二回目の診断で「なんで治らないの?薬ちゃんと飲んでる?」と医師に言われ、悔しさで泣きながら合わない薬を飲み続けました。

 

六月の終わりには母も来てくれました。

「一回すべて整理して、静岡で休もう?」

その声に、同期と別々の学年になるのが嫌だった私も限界を感じ、嫌々ながらようやく休学届を出しました。

 

二年休学し、同期が大学四年生になった年に復学しました。

病名は鬱病に変わっていました。

今度は、仕事を辞めた母が付いてきてくれました。

診断書を持って復学した私に、大学側も精一杯の配慮をしてくださいました。

でも、疲れてくると「人の形を保つのがやっと」という感覚になるのです。

人の声が怖い、バスが怖い、眠れない夜が怖い。

そのうち同じように一時間目に行けなくなりました。

最後の一撃は、あまり病気に理解のない教授によるものでした。

「もっと頑張れ、だから病気になんて負けるんだ」

 

すべての授業を放り出してうちに帰って、母に、「私頑張ってないんだって」「毎日こんなに苦しい思いして、まだ頑張らなきゃダメなのかな」と大泣きしました。

母の答えは、「もうお前は十分頑張った。それでも認めてもらえないなら、静岡に帰ろう」

今度は私も、「大学は、今の状態の私がいられる場所じゃないんだ」とすんなり認めることが出来て、正式に退学届けを出しました。

 

もう子供の声が恐ろしく、何をするにも外を出歩くにはイヤホンが必要で、密室であるバスや電車には一人では乗れず、消耗しきった心ではどうにも生きにくい。

 

夏に実家に帰り、十月になるころ、犬を飼い始めました。

外に出られない私が外に出るための理由と相棒を迎え入れようと、両親が手を尽くして頑張ってくれました。

黒豆柴の「おこげ」ちゃん。

今は豆柴というには大きくなりましたが、「おこげ」を飼い始めたことによる荒療治で何とか外に出られるようになっていきます。

 

そのうち、初めての就労継続支援B型施設に行けるようになりました。

そこでできたお友達とは、今でも一緒にお出かけする仲です。

 

昔と比べたらだいぶ良くなりました。

電車にも一人で乗れるし、「おこげ」との散歩は苦痛ではないし。

それでも、「精神疾患」というものがこんなにも身近で、いきなり襲い掛かってくるものだとは知りませんでした。

私の耳にはいつだって「お前は普通じゃない」という悪魔の声が染みついていて、どうにもできない夜があります。

 

何度も何度も死にたくなりました。

親に少しでもお金が入る方法で死ぬことはできやしないか。

そう考えることばかりの日々もありました。

それでも、今は死ぬことをあきらめることができました。

私たち家族が協力しないと生きていけない存在、「おこげ」という私の妹。

次回は「おこげの話」をしようと思います。