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野球を志す人は、志すまでの人生のどこかで自分にとってのヒーローが見せたスーパープレイを大事に抱えているらしい。同様にサッカーを志す人は自分のヒーローが見せたスーパーシュートをそれぞれ大切に胸の内に抱えているのだそうだ。だけど、僕に言わせれば、それってそれ以前からもう野球なら野球を、サッカーならサッカーを自分の仕事にしたいという思いを既に抱えていて、だけど迷いがあるところ、目指すんだということを自分にも他人にも宣言する決意を固めるきっかけを待っていたんだと思う。
だから、本当に青天の霹靂と言うべきショックというのは、何を期待するわけでもなくテレビの音楽番組を見ていた僕が偶然出会った、絶世の「美人」であるティムのいかがわしいパフォーマンスや野太い歌声によって、日本の冴えない高校生が遠いイギリスに思いを馳せてしまうような、そういう出来事を言うんだと、僕は思う。
そして、それからそんなに時間が経ってもいないのに、僕にとって2回目のショックがやって来た。それは、お下劣なジョークの連打のあとに、強烈な恐ろしさと悲しさを突きつけるという激しい感情の動きを畳み掛ける、そんな文章だった。
僕には、子供のころから本ばかり読んできたせいだろうが、本の声が聞こえることがある。別にその本を探していたわけでもなんでもないのに、前を通りがかっただけで本の方から「僕は面白いよ!読んでみてよ!絶対気に入るから!」と訴えかけられることがちょくちょくあるのだ。
中学生のころから図書館には通っていたが、目的はイギリスを中心としたヨーロッパの観光ガイド的な本だった。それだけでは読み終わってしまうのも早いので、もうとにかくちょっとでもイギリスに引っかかるものがあったら手当たり次第に読んだけど。
だから、日本人の作家が書いた小説本を借りるなんていうのは、その本の方から僕にアピールしてきたからとしか言いようがない。とにかく、僕は何かを感じてその文庫本を手に取り、手に取った理由を探るためにその場でパラパラと流してみたがすぐにわかるものではなく、結局それを借りて帰ったのだ。
短編集だったが、どれもこれも馬鹿馬鹿しい笑いに溢れていて、僕は久しぶりに腹筋が攣りそうになるまで笑った。そして、その本の最後に収録されていたメインの小説は、環境汚染により人間が長い間立ち入れなかった島の異常な進化をした動植物たちを、ようやく入ることができた研究チームが入って観察していくというSFだった。そして若い相棒とふたりで調査をしていた主人公が、その島の奇怪な植物に若い相棒を食われてしまい、近しい人を亡くした人間なら哀悼の意を込めて当然取る行動が、その奇怪な植物にとっては生息域を拡大するという目的に大変適っており、まんまとその植物に「嵌められた」思いだとかその植物にどんな名前をつけてやろうかという悪戯心だとか、いろんな感情が入り交じって涙を流しながらゲラゲラ笑い続けるというシーンで終わっていた。
僕は感情表現が下手なのは確かだけど、この小説を読んで、自分の感情というものがいかに平板なものであったか、それを思い知らされた気がする。たとえて言えば僕の感情表現というのは大根役者みたいなもので、楽しければ「あぁ、楽しいぜ!ヒューヒュー!」悲しければ「あぁ、悲しいぜ!ヨヨヨ」みたいなものだった。
だけどそれだからこそ、絵にたとえるなら岡本太郎の渾身の力作みたいな、強烈な色が混じり合ってもう何が何だかわからなくなっている、力強さとある意味での毒々しさ、だけどそこに生きている人間の息づかいだけはハッキリと感じることができるような、そんな感情表現がしてみたい。僕はそういう感想を持った。
同時に思い知ったのは、日本語の面白さだ。これを書いた筒香雄司という作家は、日本で前衛的な音楽活動をしているジャズミュージシャンとも懇意らしい。そのせいかもしれないが、極めて不規則なように見せながら、なんだか読み続けているうちに体の中に沸き起こってくるビートみたいなものを感じる。わかりやすくて、悪く言えば作為を感じるリズムではなく、読んでいるうちに自然と魂が動き出す、根源的で前衛的で、だけど確かなビート。日本語って、こんないろんなものを伝えられる力を持っていたんだ。
僕の思考や感情表現は、まだまだ未熟だ。それはこの筒香さんの文章で如実に僕に突きつけられた気がする。だけど、単純で未熟な僕だからこそ、渾身の思いを込めて「この文章は面白い」と叫びたい気がした。そう思ったらそれに夢中になれるのが、僕の性格の長所であり若さの特権という気がしたし、いまでもそう思っている。
だから、僕の図書館通いは激しくなった。SFというジャンルは日本ではなかなか認められなかったそうだ。しかし、小説というのはジャンルがどうこうではないだろう。一番大事なのは「面白いか否か」ではないのか?実はこの筒香さんの「SF」以外の代名詞とも言える言葉がもうひとつある。それは「スラップスティック」わかりやすく言えば「ドタバタ喜劇」だ。ちょっとした辞書ぐらいのボリュームがある長編小説が、丸ごとお下劣ギャグが詰め込まれたスラップスティックだったのを読んだときは、よくもここまでギャグを思いつけるものだと妙に感心した。
SFやスラップスティック時代を経た後は、実験的小説に移行したそうで、たとえば小説では「あれから10年が経った」なんて言って時間をすっ飛ばしてしまうのは当たり前の手法だろう。しかし、現実ならばその10年の間にも何事か出来事は起きているはずで、すっ飛ばしてしまうのは言ってみれば作家による「横暴」だ。だからこの筒香さんは、主人公にとっての時間を原稿用紙の枚数に正確に比例させるという手法で、横暴を避けた小説なんかを書いていた。
傾向の似ている別の作家の作品というのを探すのは意外と簡単な作業だと思ったが、文庫本なんかには普通入っている巻末の作品解説は、その作家に影響を受けたとか個人的に親しいとか、そういう作家が書いていることが結構多い。また、その作家が書いている小説ではなくエッセイを読むと、その作家の個人的知己に関する話はさらによく出てくる。そういう人の名前をピックアップして、図書館で探して読んでみればいい。
というようなわけで僕はこのころ読書魔と化した。市の図書館、それから学校のある政令指定都市の図書館も、通学している以上利用権があった。それからもちろん学校の図書室。さらに、例の近所の従弟のお父さん、つまり僕から見て伯父さんは、実は壮絶な読書家だ。難しい本もたくさん持っていたが、実は軽い読み物もかなり読む人でそういうものは1回読んだら息子に与えてしまっていた。だから僕の従弟である息子もかなりの数の本を持っていた。従弟はそういうものに関心がなさそうだったので、僕はごそっと借りて帰り、授業中に指名されて答えなければいけない可能性が高い授業以外は全部机の下に文庫本を隠して読書する時間に充てた。もちろん通学途中の列車の中、家に帰ってからは言うまでもない。
以前から学者になりたいと思っていて、それは当然学術書を書くという作業を含む職業ではあるけれど、僕は「創作家もいいな」と思うようになっていた。内向きに生きざるを得ず、外の世界をなるべく見ないようにしていた中学生活から打って変わって、できすぎなほど順調な高校生活を滑り出したことにより、僕の心は自分でも制御できないほどなんにでも食らいつく雑食性を発揮していた。
最近、作家もいいと思うんだよね。そんなことを言ったら、早川さんは間違いなく呆れるだろうと思う。真面目に考えてるの?とかなんとか、そんな言葉が返ってきそうだ。そして、これは間違いないと思う。あの、無邪気な笑顔で、ケラケラと笑うはずだ。
「なぁネリー、やりたいことがたくさんあるって、どう思う?」
僕が何もかも自由に話せる相手はネリーしかいないので、僕は素直にネリーに訊いてみた。
「よくさ、芸術家でもスポーツ選手でも、幼いころからそれになりたくて一心不乱でしたっていう感じの人が、筋金入りのなんとか、とか言われたりしてるじゃん?だけど、ほとんどの人が最終的にこういうことをする人間になりました、っていう理由は、そんな深い理由じゃないと思うんだ。何かになりたいと思って、挫折して、また目標が見つかって、そっちでもまた挫折して、の繰り返しで、最終的に流れ着いたものを本職にしているんだと思うんだよ」
ネリーは、僕のデスクの上に胡座をかいて座りながら、僕の言うことをちゃんと聞いてくれているように思った。
「挫折するってことは、誰にとっても愉快なことではないから、子供のころから一直線に目指してきた道で成功してます、っていう人を、普通の人はうらやましがるんだと思う。だけど、一直線に成功することって、案外面白くないんじゃないかな?何かになりたいと思って努力したってことは、最終的に実にならなかったとしても、そこまでの努力で一般人は知らないで生きている何ものかを学んでいると思うんだ。挫折経験の多い人ほど、そういう感じの、実益は少ないけど雑談ネタにはなる知識は多いよね。人間としての懐の深さって、案外そういうところから生まれるんじゃないかな?」
ネリーはどこまでわかってるのかわからないが、とりあえず僕の方を向いてじっと話を聞いてくれてはいた。
「そういう繰り返しの中で最終的に残ったものが、世の中の人が必死になって探している『自分らしい自分』なんじゃないのかな?いまの自分と違う自分を想定して『私は自分らしい生き方ができていない』って、実はあんまり意味ないよね」
ここまで語ったら、ネリーが頷いてくれたような気がした。
「この筒香さんがエッセイに書いてるけど、ファンから『どうやったら筒香さんみたいな作家になれますか』って訊かれたときに、自分の両親の名前と自分の誕生日を挙げて『そういう人間として生まれつけば僕みたいな作家になれます』って答えてるんだ。これって筒香さんらしい皮肉を込めた批判だと思うんだけど、どうだろう?」
ネリーはまるで「難しすぎて頭の中で処理が追いつきません」を表現するように、カクカクとした動きを混ぜながら首をひねった。
「単純に言えばさ、ネリーだって1回はあんなに大きくなって、僕の元からしばらくいなくなって、でまた小さくなって戻ってきて、結局僕のそばにいるだろ。正直に言って、何か与えられた使命とか目指す目標にまっすぐ向かって生きているようには見えないよ」
このとき、何を思ったかネリーは右腕だけでガッツポーズを作ってみせた。それが何を意味するのか、正確なところはわからなかったけど、僕にはなんだかそれが無性に可笑しかった。
「まあ、ネリーが蟻とか蜜蜂みたいに、わかりやすすぎる仕事に必死に励むような生き物だったら、僕はこんなに親しみを覚えなかったと思うよ。理由はよくわからないけど、なんだか近くにいるこの感覚、僕は好きだな。僕の友達って考えたらそんな連中ばかりだ」
いつまで一緒にいることになるのかわからないけど、一緒にいるいまが楽しかった。
だけど、このころ楽しかったのは家族の中では僕だけで、母はとんでもなく面倒で嫌な事態になり始めていたし、酒とプロ野球さえあれば幸せな僕の父も、その事と無関係でいることは不可能だった。
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