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 僕が行くことになったこの高校は男子校だ。この県の私立学校はほとんど、仏教の何らかの宗派が実質的な母体だ。だからこの高校も元々は僧侶の養成所で、週に1回だけだけど宗教の時間がカリキュラムに組み込まれていた。
 ここまで完膚なきまでに男子校な男子校っていうのも、もしかしたら世の中珍しいんじゃないか。芸術系科目は、1年生の間に1科目取ればそれだけだった。僕は一番楽な書道を選択した。他の人が練習したものに名前だけ書いて出していたけど、それでも他の2科目を選んだ友達より成績が良かった。書道の先生なんかは僧侶の副業とかそういう事情がありそうだから男の先生だったのは珍しくないと思う。だけど美術と音楽を取った友達に訊いたら、両方とも中年の男性教師だと言っていた。美術の先生は人伝に聞いて何例か知っていたが、音楽の教師が男性というケースは初めて知った。
 男子が一番性欲の強い時期が高校生ぐらいだと思うので、このくらいの男子にとってストライクゾーンに成り得る年齢はすごく広いと思う。高校に入ったばかりだから、自分は15歳か16歳ってことになるだろうけど、下は中学1年生、上は30歳前後までぐらいは欲望の対象として見ることができるんではないだろうか。仮にそうだとしても、飢えた男子高校生にとってかろうじて範囲に入り得るのは図書館司書ひとりだけで、あとは女性と言えば学食のオバチャンぐらいのものだった。
 だから体育系の部活をやってる連中なんかは部活上がりに校内を平気で全裸でうろついていたし、猥談をするのに声を潜める必要もなかった。同級生の中には「あ~あ、こんな青春の時期を男ばっかりで過ごすのって悲しいね!」とか言ってるやつもいたが、僕はそれに半分同意するが半分は「そうでもないんじゃね?」と言いたい気もする。クラスのやつが手に入れたアダルトビデオを学校に持って来て、誰にどういう順番で貸し出すかを決めるじゃんけん大会が行われたところで、誰も文句を言わない。何より、中学の時に一緒だった、ローティーンにして既に阿婆擦れの風格たっぷりなああいう女子連中と一緒になる不安がない。まぁそのかわり第2の早川さんに出会える可能性はほぼゼロだけど。
 それに、どうしても出会いを求めるんであれば、よその高校の生徒に出会えばいいだけの話だ。乗り換えをしてるターミナル駅で、僕はいろんな学校の制服を着たいろんな女子高生を見ていて、実際に時々見かけるある女子高生のことを、まだ性格も何もわからない人だから好きというほどではないにしても「可愛い娘だな」程度の好印象を持っていた。それは、同じ制服を着ている生徒たちとたいていの場合一緒だったから市内のどこかの高校に通っていることは間違いないが、ブロンド長髪を靡かせた、白人の女の子だった。
 そう、僕はティムの件からイギリスに興味を持ち、そしてそこからさらに連鎖する形で白人女性大好き男になっていた。僕の趣味は特殊と見られていて、エロ本に外人モデルが載っていたり、外国のポルノビデオの通販広告が載ってたりしたらクラスメイトが切り取って持って来てくれるぐらいだったが、そんなことを気にするような僕じゃない。僕は外人専門エロ雑誌を買い、そしてアダルトビデオを借りてきた。それができたんだから、いい加減な時代だ。
 もちろん、これらの諸々のものを見るのは、その芸術性の高さを味わって高尚な気分になるためではない。他の方法では解消できないストレスを解消するためだ。僕はしばしばネリーと一緒にそういうものを鑑賞し、ネリーが見ている前でセルフリラクセーションを行った。親には絶対に見られたくないところだが、ネリーがそれを見ていることは全く気にならなかった。ネリーは、ビデオにせよ雑誌のグラビアにせよ、僕の顔近くをふわふわと浮かびながらそれらを一緒に見ており、恋人どころかこういうたぐいの素材すら存在しない生き物であるネリーは、これらを見ながらどんな気分になっているのか、僕は不思議に思ったがそれ以上の追求はしなかった。
 ある意味、僕がこっちに引っ越してきてから、一番自由な時間が流れていた。父が勤める町工場には残業というものがほとんどないようで、父はほぼ毎日決まった時間に帰ってきては、食料を求めるより貪欲にウィスキーを求めた。さすがに毎日「潰れる」と言うべきレベルまでは飲みはしなかったが、機嫌が良くなると勝手に眠ってしまって、僕はゆうゆうとネリーと一緒に風呂に入った。
 そういう意味では父にとっても心安らぐ日々だったんだろうが、心安らかではないのが母だった。見るからに毎日苛立ちを隠せなくなっており、ストレスのせいだろうか、昔から僕にとって「太っている人」の代表格だった母がやせてきていた。昔の女だから原付免許すら持っておらず、会社に行くにも、そこから祖母のやっている飲食店に行くための電車に乗る駅に行くにも、そして帰ってくるにも自転車だったが、頑丈で積載量が多いことを最優先したようなその自転車は僕から見ても異様に重く、荷物を満載して帰ってくる母は駅から電話で「荷物取りに来て」と連絡をしてくることも増えていた。僕が行くときは歩いて行って、駅周辺の平地から山の方へと開発されているこの街の登り坂を、母の自転車を転がし母としゃべりながら帰ってくるようにしていたが、父が「俺が行ってくるよ」と言うときには原付を駆って荷物だけを受け取って帰ってきた。
「自転車を持って欲しいと思って連絡してるのに気の利かん人や、誰のために働いてると思ってんのやろ?」
 母はしばしばぼやくようになっていた。
 母が祖母の店で、かなり嫌な思いをしていることはほぼ間違いなかった。

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 土地は、決して値崩れしない。従って、土地は唯一絶対の信頼置ける投資対象。誰もがそう信じて、土地を扱う会社がボロ儲けし、そして連日記録的な高い株価を更新し続けることにより、そういう株に投資している人たちもまたボロ儲けした。いまから思えば、あんな異常な時代が信じられない。
 しかし、僕はこう思う。たとえ「誰も彼もが儲けられる時代」であっても、世の中のひとり残らずが同じように儲けるなどということはあり得ない。一万人に一人であっても、やっぱり他の人の儲けになるために食い散らかされる人間はいる。ヌルいやつ、ニブいやつはやっぱり食い散らかされる側の人間なんだ。そして、僕の両親がどっち側の人間かというのは、もはや言う必要はないだろう。
 僕は、幸いにして奨学金をもらうことができた。奨学金は、私学と公立で額が違う。僕は私学の方の奨学金を得たが、授業料は半額免除だから入ってくる奨学金と毎月払う授業料を差し引きしたら、いくらか手元に残るということになった。それは、将来の大学へ向けての貯金ということに、否応なしになったけどね。
 僕のクラスは、全員で34人。多分、その中で一番「食い散らかされる側」の親を持っていたのが僕だと思う。このころ、うちの貧乏は輪をかけてひどくなっていた。列車で通学するので、当然定期代がいる。その定期代をくれ、と言うというそのことが、まるで僕にとって毎月やってくる断罪のようなことになっていた。だいたい、高校生が自由に使える金額が月額たったの2千円というのはひどいと思わないだろうか。ウィークデーは週5日として、弁当のあとのドリンクを買うのさえ、ひと月程度買うのもままならない。
 だから、いまだから言うけど、僕は自分の自由になるお金を作るために、あくどいこともやったよ。詳しいことは言えないけど、貧すりゃ鈍するだな。でもそんなのは焼け石に水。クラス中が競うように高い時計をつけ、有名メーカーのシューズを履いて通学している中で、僕は下手したらコンビニにでも売っていそうな一番安物の時計をして、ホームセンターに行けば一番安くで買えるようなデッキシューズを履いて通学していた。まぁ、体育の授業がある日だけは、デッキシューズから一応スニーカーに出世したけど。そしてその下に履いてる靴下も継ぎ接ぎを当ててあるようなのを履いてた。
 どういうわけか、僕のことを気に入って高校生になってから最初に向こうから声をかけてくれて友達になった山本くんは、クラスで一番北の方から来ていた生徒だったけど、元は農家で土地を持っているという、この時期一番金持ちだった層だ。だから、時計は高級品、靴ももちろん有名メーカーの最新型を常に履いていた。この山本くんに、僕は最初冗談のつもりで食後のドリンクをおごってくれと言った。そうしたら山本くんは何の抵抗もなく僕におごってくれた。僕は結局この山本くんに高校3年間ずっとドリンクを集り続けることになる。本当、貧すりゃ鈍するだな。ありがとう山本くん。
 一方で、僕の家だ。とにかく家を手放さないためなら修羅のごとく。正直、父にはそんなに家に対するこだわりはなかったと思う。先にも話したが、、結婚するときには6畳一間のアパートに平気で嫁を迎え入れた人だし、子供ができるに当たって住み替えた先も和室が二間の平屋の借家だ。大規模開発で土地の買い上げになって、絶好の機会とばかりに母が頑張って持ち家の主になったわけだけど、生活に困っているのに家を売らない心理って何なんだろうな。
 で、前にも話したが、今から考えればうちの両親は祖母から限りなくお恵みに近い「借金」をしてなんとか生活を維持している状況で完全に頭が上がらなかったんだと思う。だからこのころどんどん惚けてきて、勝ち気以外のものをどんどん失っていた祖母に、母は言われ放題罵られ放題だったんではないだろうか。毎日母は店の手伝いに行っていたし、祖母から見たら母に対して「片付き先を見つけてやった」という一生分の恩がかけてあるんだということになっていたんだろう。だから当然祖母からの攻撃を一番受けていたのは母であり、毎日毎日ピリピリしていた。父との喧嘩も増えていた。
 こう言うと母がだけつらい思いをしているみたいだが、このころ母は僕に対しても父に対しても到底納得できないことを要求した。
「なんでそこでごちゃごちゃ言うねん!『はい』言うたらそんでええのや!」
 それに反論するとこういう罵声を上げることも少なくなかった。多分、同じような罵声を店で毎日のように受けていたんだろう。
 こんな家庭を僕が好きであったと思う人はまさかいないだろう。僕は家が嫌でしょうがなかった。そんな僕にとってささやかな、僕だけの空間が、家で一番日当たりが悪くて一番狭い僕の部屋だった。逆に言うと、そこにいれば僕の安寧は保証されていた。罵り合いが聞こえている間は、僕の部屋に向かって来てはいないということがわかるから。怒号の応酬が聞こえている間は安心だってことだ。
 いつものようにネリーを部屋の中に出し、ふわふわと漂わせながら僕はネリーに話しかけた。
「人間って嫌だね、ネリー。なんで夫婦になんかなるんだろね。誰もが好きに異性とくっついて、好きに子供作って、子供を国か何かに預けたらいい、という制度の方が、子供作る人は増えるんじゃないかね。一生涯喧嘩する相手なんか、僕なら絶対欲しくないよ」
 ネリーを前にすると、僕はやっぱり愚痴ってしまう。駅で見かけるブロンドのストレートヘアがきれいなあの女の子と仮に将来結婚できたとして、楽しいのは数年なのかな。
「ネリーって、同じような生き物をいままで見たことがないけど、彼女とか作ったり結婚したり、そういうことってあるのか?」
 いままで何度か抱いたそういう疑問をネリーにまた問うてみたが、ネリーは相変わらず自身良くわかっていないようだった。
 このころのネリーについては、僕はわからないことだらけだった。ゴルフボールに扮して僕の元に帰ってきてくれて以来、僕の前で「食べる」という行為をしたことは1回もないけれど、以前のような急速成長ではないにせよネリーは少しづつ大きくなっていたのは間違いない。なぜだろう?
「昔してくれたみたいに、僕を空の散歩に連れて行ったり、そういうことはできるの?」
 これはわかるんじゃないかと思ったから訊いてみたが、予想どおりやや残念そうに首を横に振った。
「そうか、じゃあ、今度は僕がネリーを空中散歩に招待しないとね。高校出て、大学に行ったらそこそこバイトもできるだろうし、お金を貯めてね。人間は飛行機っていうのに乗らないと空を飛べないけど、飛行機から見る景色もそれなりにいいと聞くよ。どこがいいかなあ。森が好きなネリーだから、北海道かな。札幌じゃなくてもっと辺鄙なところにある空港に行くやつ。外国ならカナダかなあ」
 そう言うとネリーは、僕のCDラジカセの上に降り立って、ナイトメアズ・イン・ワックスのCDを腕で指し示した。
「ああ、イギリス?そうだねえいつか行ってみたいね。でも、世界で最初に近代化した国だから、森っていうイメージはあんまりないなあ。いずれにせよ、大学に入ってある程度単位取って、卒業できる目処がついてからの話かな」
 僕にとってイギリスはあまりに遠かった。そして、その遠さゆえに、このころの僕にとって「閉塞した日常から出たらそこにある場所」の象徴がイギリスだった。
(いつか……行ける日が来るのかな)
 考えてみれば、このころからぼんやりと「どうやったらイギリスに行けるか」を模索しはじめたような気がする。やっぱり、ネリーの存在は僕にとって大きかった。