年末になった。祖母の飲食店は観光名所の門前商店街の中にあるので、年末年始は終夜営業をしていた。当然、母はかり出されており、僕と父は年末年始を作り置きのおかずで過ごすことになった。世間的にも連日昼間から酒をあおることが許される数日間だ。父はここぞとばかりに強くてまずい安酒を用意して、連日酩酊状態だった。僕にとってはその方が都合が良かった。何と言っても、父が潰れている間にネリーと遊ぶ時間ができる。そしてまた、この数日間というのは朝起きて夜寝るという「正常な」生活リズムを保つことをやめても許される数日間でもある。さらに、割と簡単にエネルギーを摂れる食べ物、すなわち餅が大量にある期間でもある。
うちの家の居間に入るためのドアは、ちょっと大きく高さ2メートルに作ってある。しかし、このときネリーはもうそこに頭をぶつけるんじゃないかと思うくらい大きくなっていた。そして餅を食べさせている数日間で、明らかに背が高くなったのがわかった。
世間が寝静まった深夜というかむしろ早朝といった方がいいような時間に、僕はネリーと一緒に庭に出てみた。誰に見つかっても不思議ではないこんな状況の中にネリーと一緒に立っていることが僕にはとても不思議に思えて、そして、とてもエキサイティングだった。僕らは空を見上げた。
「冬は空気が澄むねえ、ネリー」
そう言葉をかけると、ネリーも上を向いたまま首を縦に振った。
「なんか星に手が届きそうだよ。実際手が届いたらいいだろうな」
何の気なしに僕はそう言って空に向かって手を伸ばした。そうしたらネリーはこっちを向いて、自分の胸をトントンと2回叩いた。何が言いたいのかな「任せろ」?
ネリーは僕を抱きかかえると、体を伸ばして僕をすっぽり包み込んだ。そういえば、こいつは変形自在の存在だったんだ。いつもは人間型だから、時々そのことを忘れそうになる。そのあと、ネリーはそのまま空に飛び立った。そうだ、これも忘れていた。どういう原理かよくわからないが、ネリーは空が飛べたんだった。いままで1メートル前後の高さを行き来していただけだから僕は知らなかったが、このころネリーはもう空を自在に飛べるようになっていた。
頬に当たる空気の冷たさに対して自分の顔が発熱していて、たぶん赤くなっているだろうことを自覚しながら、僕は久しぶりに大興奮していた。もっと飛ぼうよ、もっと上に行こうよ、そう言うとネリーはリクエストに応えてくれた。僕が住む街が、どんどん小さくなっていった。あんな小さなところで、虫みたいに這いつくばって、踏みにじられて。でも僕はいま、それをとても小さいものとして見ることのできる場所にいる。身の回りの大人が誰ひとり口にすることすらなかった「クリスマスプレゼント」。数日間遅れて、僕はネリーからそれをもらった。やっぱり、いま心を通わせることができる相手は、ネリーだけだ。
久しぶりに、僕は何もかも忘れて楽しむことができた。
10
この中学には、いわゆる修学旅行というものがない。2年生の終わり近くに行われる、信州へのスキー旅行が修学旅行の代わりだ。
僕みたいな立場に置かれた人にはわかると思うが、こういう旅行とグループ行動を伴うものが一番憂鬱だ。どのグループに入るのだって「お情けで」入れてもらうだけの話になるし、そんなグループで行動したところで楽しいわけがない。僕は結局、最終的には数あわせで2グループのうちのひとつに入ることになった。徳山や野川や黒崎がいない方のグループだったことだけがなんとか救いだ。
ただホテルでのグループ分けとスキーでは違う。野川や黒崎は家がそこそこ金持ちだし、運動神経がいい連中だということもあり、中級者以上のグループにいた。僕はスキー場に行くことはそり遊びしかできなかった子供のころ以来だしスキーもやったことはない。だから僕たちは初心者グループになった。このグループで僕は「仲良し」の3人の中では徳山とだけは一緒だった。やっぱり、母子家庭ってことでこいつも貧乏なんだろうな。別に、だからと言って親近感を持つつもりなんかありはしないが。
スキー教室初日、僕は初めてスキーを履いた。クラス全員の前でインストラクターたちはジョークを交えた挨拶をして、生徒たちの笑いを取った。この辺りでスキー関係の仕事に従事する人は、多くが関東からの季節労働らしい。まぁスキーができないんであれば、この辺なんてたぶん見るものないだろうしな。でも久しぶりに聞く関東言葉に、僕はそれだけでわくわくするものを感じていた。
インストラクターの中で、誰が見ても一番ベテランで、スキーウェアが一番似合っており、それゆえにかっこいいお兄さんが、僕ら初心者グループの担当だった。
まずは正しい転び方に始まり、平地の歩き方。斜面の上り方。歩いて上れる範囲の距離を何回かボーゲンで滑り降りたら、次はリフトに乗る。リフトの乗り方にも色々とコツがあるようで、インストラクターは丁寧に教えてくれた。スキー場で一番緩い斜面をトロトロと滑り降りてくるだけとだったが、それでも僕は生まれて初めてスキーで滑って、それなりに興奮したことは認めざるを得ない。
しかし、何かするたびに勝手な行動をして、僕らのスキー教室の邪魔をしたのが徳山だった。インストラクターは、そのたびにこらこら、危ないよと言っていたが、午後の時間も半分を過ぎたころになって、インストラクターはついにキレた。
「いい加減にしろよお前ら!」
インストラクターは怒声を上げた。
「言うこと聞かねぇと危ねぇっつってるのがわかんねぇのかよ!お前ら動物か!?」
インストラクターはそれ以上のことを言いたいのをぐっとこらえていたのがよくわかった。しばらく、僕らとは違う方向の地面を見つめていた。
「いいか、これから言うこと聞かなかったら、扱い変えるからな。覚悟しとけよ。特にお前だ!」
インストラクターはストックでまっすぐ徳山を指した。まるで、怒るべきことがあったヨーロッパの貴族が決闘を申し込んだ相手にレイピアを向けているようで、僕にはすごくかっこよく見えた。と同時に、やっぱりどんな人間であっても、徳山みたいなやつはウザいんだなと納得した。
そんなこんなで1日目のスキー教室は終わりを迎えた。風呂に入って寝る時間。たまたま、僕は担任と顔が合ってしまい、クラス副委員の男子を呼んでくるように頼まれてしまった。野川や黒崎のいる、あっちのグループにいるやつだ。仕方ないので僕は連中のいる部屋へ行き、そいつがいるかどうかたずねたが、ちょっと前に部屋から出て行って、誰もどこに行ったか知らないということだった。僕はどうしようかな、とちょっと考えた。それだけの仕草なのに、野川からヤジが飛んだ。
「怒ることないやん!」
黒崎が乗っかった。
「こいつ、すぐ怒りよるやろ!うっとしいわ」
悪いけど、お前らの挑発に乗るほど馬鹿ではないしヒマでもないんだよ。とりあえず、いませんでしたと報告したら僕の役目は終わりだろう。そう担任に言いに行ったら、副委員は既にそこにいた。
修学旅行とかこういう学校行事のたぐいでは、就寝時間になっても眠らずに遊ぶことこそが、生徒側から見たらむしろメインイベントだろう。だけど、野川や黒崎ほど嫌な連中ではないにせよ、僕はこいつらともつるむ気は一切ないので、早々に寝てしまったふりをした。狸寝入りの中「こんな簡単に眠れるやつうらやましいね!」という声を聞きつつ、頭の中は、ネリーはどうしているだろう、そればかりが駆け巡っていた。
そんな周りの連中も眠ってしまって、僕も本格的に眠りに入ったころ、僕は鼻の辺りを触られる感覚で目が覚めた。なんだ?誰かがまた僕に嫌がらせをしてるのか?そう思って目を開けると、そこにいたのは身長5センチほどのネリーだった。僕には全く訳がわからなかった。声を潜めて、ネリーに訊いた。
「お前、どうやって……てか、なんでそんな小さく……いったい、なんなんだ?」
僕は何をどう訊いていいのかわからなかったが、ネリーはとにかく、おいでおいでをしていた。ついて行くと、ホテルの1階にある従業員用のトイレが盲点になっていて、その窓から僕は外へ脱出することができた。このスキー場はナイターはやってなかった。もう照明も落とされて、月明かりと、それを跳ね返している雪明かりだけに照らされて、本来の大きさの、このころもうハッキリと2メートルを超えていたが、そのネリーが体育座りをしていた。小さいネリーは、飛び上がって大きいネリーの胸あたりにへばりつくと、そのまま溶けて中に入り込むようにいなくなった。そうすると、大きいネリーの方が動き出した。僕は事態が飲み込めた。
「つまり、小さい自分の分身だけを作って、僕の荷物のどこかに隠れていて、場所がわかったら本体に戻って、家を抜け出してここまで飛んできたんだね?」
ネリーは大きく2回頷いた。僕はすっかり嬉しくなった。
「あっはは!こんなことになるなんて!嬉しいよ、これからが僕のメインイベントだ!一緒に遊ぼう、ネリー!」
月明かりと雪明かりの、誰もいないゲレンデで、僕らは遊びはじめた。パウダースノーというのか、握っても固まらないので、雪合戦とか雪だるま作りなんかはできなかったが、単純にゲレンデを走り回っているだけで、十分楽しかった。転んだらネリーが起こしてくれるし、一番下まで来てしまったら、ネリーが頂上まで連れて行ってくれた。そしてまた、このあいだと同じようにネリーは僕を抱きかかえて空を飛んで、雪山の絶景を僕に見せてくれた。
遊んでいる途中、僕はくしゃみをした。よく考えたらここは夜の雪山なんだ。寒くないはずがない。だが僕は思いついてしまった。ネリーは僕の体を包むからこっちにおいでと言っているように見えたが、僕は答えた。
「いや、これでいいんだよ、ネリー。むしろ、こうしよう」
寝間着代わりに着ているジャージの上を脱ぎ、体操着1枚になって、僕は上を腰に結びつけた。
「さあ、遊びの続きだ!」
こうして僕らは一晩中遊び、夜が明ける前にネリーは帰っていった。翌日。スキー旅行2日目。僕は目論見どおり、発熱した。他の生徒から隔絶されて、帰りまで別室で寝かされるぐらいのことを想定していたが、熱は予想以上に高く、僕は持って行ったありったけの服を着て、急遽特急のチケットを取って学年主任に付き添われて家まで送られることになった。家では知らせを受けて母がその日は店の手伝いに行かずに待っていた。学年主任に平身低頭していた。
「せっかくの思い出作りやのに……ついてないな、あんたも」
うん、僕も自分で、とんでもなく運の悪い人間だと思う。特に、あなたたちの子供として生まれてしまったことが。そう思ったが、それは言わなかった。
「本格的に雪山って子供のころ以来だったからね……ちょっときつかったみたい」
お前らが息子をスキー旅行に連れて行くような甲斐性がなかったせいだよ、という皮肉を僕なりに込めたつもりだが、まるで気づかなかったらしい。
わざと起こしたにわかの発熱だったから、熱はすぐに下がった。だが母は3日間にわたって僕をお粥漬けにした。朝作り置きをして母が出かけ、僕はそれを何回かに分けて食べるということになったので、毎日食事のたびにだんだんとお粥が糠臭くなった。そんな状態でも、昼間をありったけネリーと楽しめたし、スキー旅行でのダメージは最小限に抑えたし、僕はとても満足していた。
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