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ネリーはますます大きくなり、普通に歩くことを覚えた子供ぐらいのサイズにはなっていた。そしてまた、ますます食欲を増していた。ネリーの食欲をどうやって満たすかが僕の悩みの種になっていたが、食事をするたびに不自然なくらい多くのご飯を炊くことと、弁当を我慢して食べずに持って帰ることで対応していた。
学校から帰るとまずすることはネリーに弁当を食べさせることだ。そしてできるだけ早く、晩ご飯を用意すること。朝はギリギリまで眠っていて逃げるように学校に行くのは全く変わっていなかったので、僕はこのころ晩ご飯しか食べていなかったことになる。
いつものように簡単な料理と大量のご飯をネリーとともに消費すると、僕はその日は多めに出ていた宿題を済ませるのと入浴はどちらを先にするべきか考えた。風呂に入ってから長々起きていたら湯冷めする可能性があるが、宿題を済ませてから風呂に入ってこういうときに限って親が早めに帰ってきたら本当にしゃれにならない。だから僕は、先に風呂に入ることにした。湯冷めしないようにはんてんを着込んで、僕は宿題に手を付けた。
デスクの上の作業を、ネリーは興味深そうにのぞき込んでいた。そこで僕は、父の部屋から事務用の椅子を持って来た。それは「たったひとりの営業所でも、俺は営業所長だから」という理由で買ったやたらでかくて重いスチールのデスクの前に置いてある、贅沢なぐらいの事務用椅子だ。数ヶ月前まであの会社の「西日本営業所」だった部屋から、僕は自分の部屋へ椅子を転がして入れた。
自分のデスクの前に椅子をふたつ並べて、木でできた学習用の椅子に僕は座り、高さ調節機能がついた事務用椅子は一番高くしてネリーを座らせて、僕は宿題を続けた。それでもネリーはデスクの上がやっと見えるぐらいの高さしか、このときはまだなかったけど。
「なあネリー、こんなところ、見てて面白いのか?」
そうたずねてみた。予想外に普通に、ネリーはコクンと頷いた。
「そうだ、お前の名前を書いてやろうか」
僕はそう言って、デスクの棚に乱雑に突っ込んである古いノートの1冊を取り出した。最後の1枚を破り取って、僕はマジックで大きく「ネリー」と書いた。それを見せると、ネリーは無邪気に喜んでいるように見えた。
僕の記憶の中から、ある光景がふとよみがえった。やっぱり、引っ越し前の中学での出来事だ。
前の中学は、ちょうど僕らが入学したときから市内の公立中学の区域分けが変更され、3年生2年生は5クラスしかなかったが、1年生は8クラスあった。急に家が建ち並びはじめた広大な範囲が、この中学の校区とされたからだ。だから、小学校の時には顔を合わせるはずもなかった多くの同学年と、僕は一緒に過ごすことになった。前に話を出した1年生で1級のふたりも、そこらへんに住んでいる連中だった。東京都区内へ出るにもそう不便ではないその辺りは、時代背景もあって「高級住宅地」として売りに出されていたようで、そのせいかも知れないが新しく顔を合わせる連中には美少年美少女が多かった。1級のふたりのうち、ひとりは上級生の女子がわざわざ体育館に稽古を見に来るぐらいの美少年だった。そしてもうひとりは、その腰巾着、そういうふたりだった。
そういう経緯でクラスメイトとして初めて出会った女の子。どういうわけか、僕に興味を持っていたらしい。隣のクラスに、僕が小学校のころからの親友がいた。ありがたいことに、この男とはいまでも親友だ。なので、僕は休み時間になるたびに、廊下でこの友達と話し合っていた。僕とこの友達との会話の特徴なのかも知れないが、言葉遣いがいちいち大仰になりがちだ。今度こんなテレビ番組が放送されるが見られそうか?いや、ちょっと難しいかもな、それだけのことなのに、テレビ番組に向けて体制は整えられそうか?いや、なかなか危険な情勢だ、そんな表現をする。それが彼女のツボにはまったのかも知れないが「だめだよ、危険な女性の話なんかしちゃ」とケラケラと笑って茶化しながら近づいてきたりした。
勉強の話なんかも、よくするようになっていた。
「だからさ、この式はそうやって解くよりも、まず仮にyイコールの形に変形した方が早いよ。両方の式がイコールyなんだから、つまりxを含むこの式は両方同じだろ。だからこれをイコールで結べば、xと整数だけの式になる。それで、形を整えてやれば、xの値が出てくる。これさえ出てくれば、1番でも2番でも好きな方のxに代入してやれば、yの値がすぐに出てくる」
「すごーい!結構勉強できるんだね!」
「まあ、これでも将来の夢は学者だからね。中学1年レベルで躓いてられないよ」
「それもすごいなあ。今の段階からもう将来の夢があるんだ。私なんか、まだ自分が大人になること自体が想像できないもん」
「なりたいものとか、ほんっとうに何にもないの?」
「ないなあ。女の子の夢って言えば、女優とかアイドルとかあるけど、そういう方面にも私ほとんど興味ないし、かと言って無難にOLやって無難に結婚っていうのもなんか違う気がする。なんなんだろうな、私の夢って」
「まあ、まだ焦って決めることもないんじゃね?中学校にいるうちに見つかったら、俺に教えてくれよな」
「うん、約束する!」
そんな会話を、椅子を並べてしたものだった。とても「彼女」なんて表現できるものではない。まだ子供っぽい関心を、お互いに持ち合っていたに過ぎないと思う。だが、そのままあの中学に在籍していれば、僕の人生初彼女になったんじゃないだろうかとも思う。名前は、早川さん。早川幸智さん。幸だけで「さち」って読めるのに、わざわざ「智」って付けてるのって変じゃね?と言ったら、字面から読み方が想像できない人に言われたくなーい、っていう返事が返ってきたっけな。自慢じゃないけど、かなり可愛かった。
彼女だけではない。早川さんが一番仲良くしていた、3人あるいは僕の友人も含めて4人でよくくだらない話をしてケラケラ笑った小原さんもすごく可愛かったし、やっぱり同じクラスで、1年生ながら陸上部でかなり期待されていた堀川さんは顔が可愛い上に体がムチムチで、走っていると胸が揺れてなかなか刺激的だった。いまの中学の連中から見たら可愛いもんだが、不良少女グループだった大山さん、林さん、岡田さん辺りだってかなりの美少女軍団だった。
僕はそんな思い出が封印した記憶の底からあふれ出してきて、急に寂しくなった。早川さんがもう夢を見つけているんであれば、ぜひ知りたかった。だけど、僕たちはまだ住所や電話番号を交換するほど親しくはなかった。……会いたい。あの時を一緒に過ごしたみんなに会いたい。あの1級のふたりにしか会えなくても構わない。いまの学校の連中から比べたら格段にマシだ。
そんな人たちの顔が、目の中に次々に甦ってきて、しばらく僕はぼうっとしていたらしい。ネリーが、僕の腕をトントンと叩いた。
「ああ、ゴメンゴメン。ちょっとセンチメンタルになっちゃった」
ネリーが、僕の腕に両腕を回して、頭をつけてきた。僕の涙腺は決壊した。
「そうだよな。こっちに引っ越してきたから、今はネリーがいるもんな。だから寂しくはないよ。一緒にいような、ずっと一緒だな」
僕はそう言って、ネリーの頭を抱えてひとしきり泣いた。
「そういえばネリー、お前には彼女とかいないのか?」
流れる涙を止めるために無理矢理思考の中身を替えようと思って、僕はネリーにたずねた。ネリーはきょとんとしているように見えた。考えたら、馬鹿な質問をしたものだ。こういう生き物って他に見たことないのに、彼女がいるかもない。そもそも有性生殖で増える生き物なのか?いや、そもそも生き物なのか?栄養を摂ってエネルギーを消費していることは間違いないのだろうが、新陳代謝するならば老廃物……平たく言えばオシッコやウンコが出るはずだ。だけど、そんなところは見たこともない。たぶんネリー自身その辺のことはよくわからないのではないだろうか。
宿題を済ませて、僕は寝床についた。前の中学の仲間たちの顔が浮かんでは消えして寝入りが悪かったのは確かだが、ネリーがいなかったら僕はもっと悲しい気分になっていただろう。
翌日、やや睡眠不足気味の状態で登校して、相変わらず誰とも関わらないようにぽつんとしていたが、気づかれない程度に目で行き交う生徒を追っていた。そして、どうしてこの学校には男も女も不細工しかいないのだろう、そう思って誰にも見られないところで溜息をついた。僕から見れば、こいつらの方がよっぽど気持ち悪い。
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