学校では、いつものように必要最低限の会話しか他の生徒と交わすことはなく、それからあの練り消しみたいな生き物のことばかり考えるようになった。虫カゴの中で無邪気にはしゃぐあいつは、見ているだけでこっちの気分まで楽しくなる。あいつはどう考えているのか知らないが、僕はあいつと心の交流があると思う。登校してから苦行のような数時間を終えて、僕は一目散に家に戻った。
 練り消しは、色の変わってしまった中トロの上に横たわっていた。食べているんだろうが、どうやって食べているのかはまだ見えない。
「それもう腐るよ。新しい食事用意するから、一緒に食おう」
 僕はそう声をかけた。練り消しが理解しているのかどうか、僕にはわからない。だけど、僕にとっては貴重な会話の相手だ。親も含めて、進んで会話をしたい相手は僕にはいま、他にはいない。
 冷蔵庫を見た。トンカツ用の豚肉がある。今日はこれで食事を作ろう。でもトンカツにするには手間がかかる。やり方は知ってるが、面倒くさい。だからちょっと簡単にポークソテーで済ませた。
 練り消しは、脂身の部分と赤身の部分、どちらを好むのだろう?僕は両方が半々ぐらいになるように2センチ角ぐらいにポークソテーを切り取り、それを虫かごに入れようとして、思い直して練り消しの方をかごから出した。練り消しは、テーブルの上でぽつんとしていた。僕は小皿を取ってきて、その上にポークソテーを置き、さらに練り消しを入れてやった。練り消しはお皿の中で正座した。
 その後、練り消しは豚肉のまず赤身の部分にしがみついた。ごくわずかだけそこに欠けを作って、天を仰ぐように両腕を広げた。その後少しづつ横にずれていきながら、脂身の部分にたどり着いた。違う感触に気がついたのだろうか、しばらく脂身の部分にパンチを見舞っていたが、やがてしがみついた。そしてまた、より大仰に両手を広げると、豚肉の周りをくるくる回りながら何度もしがみついた。これはまあ旨いと思っているんだろうな、僕はそう想像した。
 食事を済ませると僕にはもう風呂に入って寝るぐらいしか用事はないのだが、ふと思った。練り消しは風呂に入るのだろうか?そう思って見ると、いま使った小皿、これが練り消し用の風呂にちょうどいい感じだ。僕はそれを洗うと風呂場に持っていき、風呂の湯をそこに入れて、練り消しを入れようとした。脚の先が湯についた途端、練り消しは慌てて脚を引っ込めた。少し水でうめてやると、皿の縁に立って恐る恐る手を伸ばし、やがて皿の中に入ると脚を投げ出して座った。これでちょうどよかったらしい。少し心配だったのはこいつが溶けてしまわないかということだったが溶けもせず、時々湯を飲んでいるように見えた。そういえば水を与えるということを考えてなかったな。これからは時々水も飲ませるべきだろうか。
 上がったらティッシュで拭いてやり、豚肉とともに虫かごに戻した。今日の用事はこれで終わりだ。親が帰ってきてまたバトルを始める前に、今日こそ本当に眠ってしまおう。練り消しと本当に友達になりつつあるようで、楽しい気分で僕は眠りに入っていった。


 僕が剣道を始めたのは、まだ小学校に上がる前だ。公立小学校の体育館を借りての剣道教室だったが、なかなか厳しかった。2部制になっていて、初級は防具を着けず、基本的な素振りや、先生の持つ竹刀へ向けての打ち込みなどを行う。進級試験を合格して、防具を着けられる立場になったときは嬉しかった。同時に進級した友達とは違い、新しい防具は買ってもらえず、従兄のお下がりだったが、それでも嬉しかった。
 元々運動神経は良くないし、ずば抜けて強かったわけではない。だが、中学校に上がって剣道部に入ったとき、僕はその剣道部史上最多の1年生の中で3番目に強かった。僕は2級だったが、1級がふたりいた。このふたりは道場も小学校も同じだったが、ふたりとも嫌なやつでしかも練習には不真面目と来ていたので、全くの初心者である他の1年生から「1年生で強いやつ」と思われていたのは僕だった。実際、中学に入って最初の大会で、計算できるメンバーを3年生2年生から集めても団体戦のチームがふたつ作れず、第1組のラスト一枠に顧問は僕を選んだ。残念ながら、とんでもなく強い私立中学と初戦で当たってしまい、瞬殺されたがいい思い出だ。
 その中学には1年間しか在籍することができず、こっちへ引っ越してきたわけだが、転入手続きのついでに剣道部はあるか訊いたがこっちの中学にはなかった。学年主任が、近所の警察署でやってますよ、という情報をくれたわけだが、手続きを取って初めての稽古に行くと、取り仕切ってるオバチャンが、まだ竹刀を振っているところすら見てないのに僕の2級を鼻で嗤った。
「そっちで2級というのがどんなのか知らんけど、こっちでは関係ないからね」
 そのオバチャンのせいで僕は常によそ者として扱われたので、2~3回は何とか稽古に行ったが、既にそこが嫌でたまらなかった。
「剣道やめたい」
 僕は両親に話した。1年生の時活き活きと剣道をやっていた僕がこう言い出すことには何か理由があるんだろう、そう思ってくれることを期待していた。だが、期待は木っ端微塵に打ち砕かれた。
「甘ったれ」
「我儘」
「弱い」
「勝手」
「だいたい学校でなじめないのもお前の弱さ」
 ありとあらゆる罵倒を、僕は受けることになった。何時間話し合っても、続けます、以外の結論を受け付けるつもりは親にはないことがすぐにわかった。
 以前住んでいたところよりは、ここは自然豊かだ。それだけは、僕は気に入っていた。僕は防具の入れ物の中に練り消しを隠して出かけ、近所を流れる川の中州にある公園で時間を潰していた。ベンチに腰を下ろし、そこに練り消しを出してやった。
 3センチほどまでに成長した練り消しは、しばらくベンチの上に立って、いつもと違う空気を感じているように見えた。やがて歩き出すと、ベンチの縁まで来て下をのぞき込んだ。地面に下りたいのだろうか。僕はそう思い、下ろしてやると練り消しは歩き出した。この中州は自然にできたものをほぼそのまま公園にしており、人工物とは形が全く違う。それが表れているのが水際だ。なだらかに砂浜になっており、これ以上行ったら危険というところにも高さ20センチほどの簡単なフェンスがあるだけ。練り消しにとっても僕にとっても、水に手を触れてみたいと思うのなら仕切りはないに等しい。
 練り消しは水に手を浸けると、水の感覚を味わうように水中で手をぐるぐる回した。それが終わるとうつ伏せになって、顔を水面の下に突っ込んだ。練り消しがあまりに気持ちよさそうにしているので、僕も真似をして川の水に手を浸け、その水で顔を洗ってみた。春の水は冷たすぎずぬるすぎず、本当に気持ちがいい。この川の水はつい数年前まで飲めたぐらいきれいなもので、そのときにはもう飲用には適さないとされていたが顔を洗うぐらいはなんともないだろう。春の風も、心地よく吹き抜けて手ぬぐいを使って顔を拭くまでもなく僕の……僕らふたりの顔を乾かしてくれた。
 練り消しは、周囲を見渡しているように見えた。考えてみれば、これまでこいつを外に連れ出したことがない。僕の家や、道場がある警察署がある川のこっち側と比べて、向こう側はまだ全然開発が進んでおらず、見る限りは鬱蒼とした森の中、川縁を行ける細い道があるだけだった。
 練り消しは、森側にずいぶん興味を引かれているようだった。いつからか、僕らはその道をどこまでいけるか冒険を始めた。
 行ってみると、その道は中州より少し上流で川から離れて山の中へ向かっていた。そこもどんどん行ってみると、巨大な岩がせり出した崖の下を通る道があったり、まるで昔話の絵本から出てきたような案山子が立った田んぼがあったりした。さらに進むと、開発が進む市街からは完全に隔絶された集落があった。くまなく回ってみたが、スーパーどころか店らしいものの一軒もなく、住む人たちは普段の生活をどう送っているのか、不思議に思えるほどの田舎だ。